(中外日報は、主に仏教界の方々が読まれている新聞である。この度、四回にわたり連載で随筆を書くことになった。テーマは、宗教および宗教者が担うべき困窮者支援の在り方について。宗教がその気になれば、大きく社会は変わると信じて書くことにした。その第二回)
宗教者にとって「信教の自由」は、何よりも大切な権利である。「信教の自由」及び「政教分離」(憲法20条、89条)と「言論の自由」(憲法21条)について宗教者がキチンと発言することは、自らの宗教行為を守ることのみならず、この国が民主主義国家であり続けるために重要である。ちなみにこの間、「報道の自由」に関する国際ランキングでは、日本は過去最低の72位となっている。ドイツ16位、英国40位、米国43位。深刻な事態が続いている。
一方、私は「もう一つの自由」について考えたいと思う。 それは「助けてと言える自由」である。それは、私たちの信仰の本質にかかわる言葉だと思うのだ。
2008年のリーマンショックの後、若者のホームレスが目立った。彼らの多くは、「助けて」と言えなかった。理由は、「これ以上親に迷惑をかけたくない」、「言ったとしても甘えるな、お前の努力が足りないと言われるだけだ」だった。自己責任論の時代に育った彼らには「助けて」は禁句だ。だが、これはもはや日本社会全体の現実となっている。あれだけ話題になったにも拘わらず昨年の9月1日も子どもの「自殺」が相次いだ。「子どもが自らいのちを絶つ現実」は、この国の最も深い闇と言える。子どもは、泣いていい、逃げていい。なのに、なぜ子どもたちは「助けて」と言えないのか。私は、「大人(社会)が助けてと言わない」ことにその原因を見る。「他人に迷惑をかけず、ひとりで生きていくのが立派な人間」と子どもに見せてきた結果、「助けて」と言えないまま多くの人が死んでいった。だが事実は「人はひとりでは生きていけない」の他にない。
「助けてと言えない社会」の現実を前に宗教者とは何かを考える。私は、宗教者こそ神仏に助けられないと生きていけない人だと思う。およそ宗教の役割はその事実を伝えることにある。そして、人間の弱さを前提とした地域社会を創造するのだ。宗教者は、完成された強い人間ではなく、自分の弱さに正直に生きる人。今日の社会において私たちが「伝道・布教」すべき第一の本質はそこにある。社会は独り強く生きることを求めるが、この潮流に対する「対抗文化(カウンターカルチャー)」が宗教なのだ。期待される「宗教福祉ネットワーク」は、自らの弱さに正直な人々によって形成されるのだと思う。
(つづく)
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