メッセージ

新年礼拝宣教 「『犬にやるな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」 最終回

そして、この時代において「犬」だ、「豚」だと排除されている人々と共に生き、自らも「犬」に成り下がろうと思う。「豚」と呼ばれて喜ぶ。「これは自分たちの持ち物だ」、「これは自分たちだけに与えられたものだ」など、ケチ臭いことは言わない。恵みを抱え込むのではなく、おおらかに、おおらかにやっていこう。聖なるものを『犬呼ばわりされた人々』と『豚呼ばわりされた人々』と分かち合おう。それが東八幡キリスト教会である。
だが、これは十字架の道である。安価な恵みではない。服従と苦難が伴う。さらに難しい現実は、外からの迫害ではない。それは、私たちの中に内在する課題である。それは、私たちの行為自体が問題なのだ。つまり、どれだけ大義名分を私たちがかざそうとも、たとえ「差別と分断と闘う」として行った「善行」であったとしても、それらの行為は、すべて罪人の行いに過ぎないという事実である。私たちの行為の一切は、「イエス・キリストの十字架の審きの下に置かれている」のだ。私たちは、赦された罪人として生きるしかない。その罪人たちが赦されながら、自らの生き方や使命を果たそうともがくしかないのだ。
東八幡キリスト教会は、この世の中がどうであっても「しかし、私たちは言う」と言えるキリスト者の自由を持ち続けたい。「聖なるもの」を犬呼ばわりされた人々と、豚だと蔑まれた人々と共に分かち合う。そうすると教会自身が犬となり豚となれるのだ。これは、苦難ではあるが、しかし、恵みなのだ。なぜならば、この苦難の中で私たちはキリストに従う自分自身であることを知るからだ。そもそも、キリストは「神であることを固守すべきこと」とせず、地に下られ、人間の姿になり、十字架の死にまで至られた(ピリピ2章)。イエス・キリストは、神という神々しさに固守されなかった。これこそが、私たちにとって救いであった。
東八幡キリスト教会もまた、「人であること」に固守しない。「犬呼ばわり」されることでキリスト者として福音を宣べ伝える。ゆえに東八幡キリスト教会は、すべての人々に「聖なるもの」を伝道し分かち合う。その点で伝道熱心でありたい。分断線が引かれる時代であるからこそ、そのような「おおらかな伝道者」が必要なのだ。世界は、分断線を払しょくする働き人を求めている。東八幡キリスト教会は、今年も一生懸命伝道し「犬呼ばわり」されつつも、共に生きる社会をめざす。
最後に2016年以来東八幡キリスト教会がテーマとしている言葉を確認して終わる。
「神様は、どうでもいい『いのち』をお創りになるほどお暇ではありません。この事実を証明するため、ひとりを大切にする教会になる」。
この一年が神様にあって歩めますように。2018年が良い年となるように、祈る。
終わり

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