(これは2025年度計画総会の日に為された宣教を補足修正したものです)
人は脆弱であるからこそ強烈に他者を求めた。脆弱だからこそ社会を創った。イエスはルカによる福音書6章20節においてこう述べている。「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。」。負け惜しみではない。人は貧しく、乏しく、弱いゆえに神を求め、他者を求める。それが人を真に幸せにする。自分は強いと思っている人は、このイエスの言葉を理解できない。しかし、たとえ理解できないとしても現実は変わらない。人はどんな立場であろうが弱い。それが、それだけが事実なのである。
使徒パウロは何らかの障害を身に負っていた。彼にとってそれが「棘(とげ)」のように突き刺さっていた。だから「棘」を取り除いてもらいたいと神に何度も祈った。そんなパウロに語りかける神。そのやりとりがコリント人への第二の手紙12章9〜10節に記されている。
「ところが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる』。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。」
「神の力は弱いところに完全に現れる」。パウロは神の言葉に気づかされる。自分は弱い。だがこの弱さこそが神とのつながりそのものであることを。ゆえにパウロは「喜んで自分の弱さを誇ろう。わたしが弱い時にこそ、わたしは強い」と宣言できた。
強者が幅を利かせる時代において、私たちは聖書が示す人間の本質に立ちたいと思う。そして、それこそが人間を真に幸いにするのだと告白したい。強さの誘惑に翻弄されることなく「弱いなりに共に生きていく」。「弱者共存」こそが信仰者の道だと信じたい。
③ 愛のみ
第三は「愛のみ」。今日世界は 「ディール(取引)」の応酬となっている。ただ、この「ディール(取引)」は、とても「正当な取引」とは言えず、単に強い立場の国が弱い立場の国に一方的に物事を押し付けているに過ぎない。先に触れたように「強いもの勝ち」の、ルールとも言えないルールによって進行している。だから「ディール(取引)」でもなんでもない。「自国第一」、「自分だけ良ければいい」という妄言が飛び交い、すべて「取引」、つまり「自分に利益があるか、どうか」という事で判断されていく。人権も平和も「自分に利益があるか」によって判断され「自分に利益がない」となると人権も平和、尊厳もクソもない。とんでもないことだと思う。
つづく