仰る通り。しかし、そこには「当事者性」が欠落しているとも思う。「空から死が降って来た」のではない。「空から死を降らせた当事者がいた」のだ。「それほど遠くない過去に解き放たれた、恐ろしい力」を解き放った「主体」は一体だれなのか。そのことを抜きにしてはこの議論は進まない。
とはいえ米国大統領が広島の実相をその目で見た意味は大きい。「当事者性」や「主体」を追求するよりも「核なき世界」を実現することが大きな意味があるからだ。この時被団協内には 「謝罪を求めて米国世論を沸かすより、いまの時代により重要なのは核兵器廃絶。米国が率先して削減することを求める」といった意見と「やはり謝罪は求めるべきだった」との意見が錯綜していたという。実際、米国は「謝罪」を求めた場合、広島訪問は不可能と考えていたようだ。答えは解らない。しかし、いずれにせよ被団協が選択した苦しみには「当事者」として「主体性」が感じられる。
今回、ノーベル委員会が被団協を選んだのは長年の功績への評価と共に、現在の世界が抱える危うさがある。2022年に始まったロシア・ウクライナ戦争はいまだ止まず、プーチン大統領は「核兵器使用」を口にしている。中東をめぐる情勢も朝鮮半島情勢も悪化している。核使用が現実味を帯びる中で被爆の実相を伝える被団協に世界の注目が集まることは良いことだ。だからこそ、問われるのは唯一の戦争被爆国である我が国がその責任を果たしてきたかどうかだ。
2017年7月国連で122ヶ国が賛成し「核兵器禁止条約」が採択された。これは国連加盟国の3分の2にあたる。2023年には批准国が68か国となったが、核保有国および日本は批准していない。情けないと思う。
石破首相は以前から「核共有」を主張しているが、これは核兵器を保有していない国が核保有国の非戦略核兵器を自国内に配備し共同で運用することを意味する。核使用の決定権は核保有国が持つが実際は日本が核武装することになる。これまで日本が堅持してきた「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」(1967年沖縄復帰の際『核抜き本土並み』の返還として提唱された原則。実際には米軍基地内部は核の持ち込みについては不明)が崩れることになる。
世界情勢、日本の情勢、そして北九州市。私は「当事者性」の中で今回の受賞を「噛みしめる」ことが出来るのか。「主体性」が問われている。その上で被団協の受賞を心から喜びたいと思う。
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