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生きる

8/11巻頭言「世の中、本当に『弱肉強食』か」

 「強くなければ生きていけない」と思っている人は少なくない。「私は弱くて小さい。生きていても仕方ない」と自己を卑下する若者と出会う。「そんなことないよ」と言ってあげるが本人は納得できない。自分の弱さ、小ささを最も見てきた本人だからだ。私の「曖昧な慰め」がどれぐらい薄っぺらか彼女は知っている。「そんなことないよ。あなたは立派で優秀だ」とでもいうのか。残念ながらそれは「言い過ぎ」。彼女が嘆く気持ちは解る。
 ある人が「結局、世の中『弱肉強食』だから」と言っておられた。「弱肉強食」とは「弱い者が強い者のえじきになること。強い者が弱い者を思うままに滅ぼして繁栄すること」をいう。新自由主義の激烈な競争社会においては、持てる者は増々持ち、持たざる者は増々奪われていく。権力は弱者を守るためのものであるにも拘わらず「単なる暴力」となって弱者に襲いかかる。
 しかし「弱肉強食」は本当に事実だろうか。「百獣の王」であるライオンは現在「絶滅危惧Ⅱ類」に指定されている。一方、ウサギは世界中で繁殖している。牙も持たないウサちゃんがなぜ生き残ったのか。ちなみに僕は兎年(どうでもいいか)。700万年前に人類は誕生した。その後、様々な人類が登場するが、最後に残ったのが「ネアデルタール人」と「ホモサピエンス」だった。ネアンデルタール人は、強靭で寒さに強く、頭蓋骨はホモサピエンスより大きかった。にも拘わらず弱かったホモサピエンスが生き残り、ネアンデルタール人は滅んだ。現在の人類、すなわち私たちが「ホモサピエンス」である。
 ネアンデルタール人絶滅の理由は何か。それは彼らが強かったからだと思う。強い分、助け合うことをあまりしなかった。私たちホモサピエンスは脆弱だったから、仲間と連携して動くようになった。ネアンデルタール人が家族単位で生活していたのに対してホモサピエンスは数百人で集落をつくっていた。どうやら歴史は「弱肉強食」ではなく「弱者共存」。つまり弱いからこそ他の存在とつながり、協働し生き延びたのだ。
 当然「弱いから生き延びた」という単純な事ではない。弱いだけではダメで、その弱さを「つながり」の根拠としたことが重要。「ひとりでは生きていけない」という「共通した思い」が皆の中に広がった。それで強烈に他者を必要としたのだ。だから他者の存在を否定したり、ましてや「えじき」になどしていたら自分自身が滅びることになる。
 ユヴァル・ノア・ハラリは「サピエンス全史」で、ホモサピエンスは「虚構」(架空の事物)について語ることができるようになったと指摘した。一つのイメージ、例えば神などを大勢の人が共有できるようになったのだ。結果、大勢の人で集団を形成できた。ハラリからは少しズレるかも知れないが、そういう「虚構」の一部として「他者を慮(おもんばか)る」ことが可能になったのだと思う。
 「弱肉強食」「一匹オオカミ」。なんとなく強い人が最後に残ると思ってきたが、どうもそうでもないらしい。イエスは「貧しき者は幸い」(ルカ福音書6章)という。貧しい者は、他に頼らないと生きていけない。貧しいから神に祈る。そうやって私たちホモサピエンスは生き延びた。今みたいに「強さ」を求めているといつか滅びるのではないかと心配になる。次は「そんなことないよ」と慰めるより「だから生き残ることが出来る」と言ってあげようと思う。

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