生きる

6/23巻頭言「人間、そうは変わりません。でも」

 人間は、そう変わらない。自分を見ててそう思う。若い頃からあまり変わっていない。「変わりたい」と頑張った時もある。しかし、そうは問屋が卸さない。キリスト者になったのも「そういう動機」があったと思う。小学四年生の時、同級生の西村君に誘われ教会にいった。そこにいた大人たちは誰もが優しく素敵な人たちだった。「こんな人になりたい」。それもあり中学二年生でクリスチャンになった。洗礼(バプテスマ)を受け身も心も「洗浄」された気持ちになった。「今までの僕とは違う。新しい僕が始まった」。確かにあの日、心が震えた。
 一週間が過ぎた。まだ世界は輝いていた。「世界中の人を愛せる」。そんな気持ちがした。二週間。「あれ、なんかおかしい」。そして一か月。「もしかすると僕は何も変わってないのではないか」。そこにはこれまで通りの僕がいた。それが事実だった。教会の大人たちも良いも悪いもない。「普通の人たち」だった。
 聖書には「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」(第2コリント5章)とある。「まるで別人になれる」。期待していた。少々騙された感アリ。
 だが、「新しくなる」とはどういうことか。「黒」だったものが「白」になるということか。あの洗礼式から四六年。「少しは変わった」かも知れない。特に最近は「穏やかになった」気がする。だが、それは単なる加齢現象に過ぎないのかも知れない。怒る元気が無くなっただけ。
 すべてを諦めるしかないのか。そうとも思わない。確かに僕の本質は変わらない。しかし、僕は人と出会うことによって変わったと思う。「出会いが人を変える」。ただ、それが意味するのは「出会うことで僕自身が変わり新しくなる」というような甘いことではない。出会っても僕の本質は変わらない。そうではなく「出会う」というのは「足し算」だと思う。変わらない僕と出会ってくれた人達が、僕の人生に加わってくれる。そのおかげで僕の人生の風景は変わりはじめる。殺風景だった僕の人生に、緑が付加され、青空が広がり、夕焼けが映える。僕は相変わらずだが僕の風景は豊かになる。うまく言えないが、変わるというのは多分そんな感じなのだと思う。当然出会いは良いものばかりとは限らない。僕の風景の中に嵐も付加される。
 人間、そうは変わらない。残念ながら事実だ。聖書の言う「すべては新しくなった」というのは、僕自身が「変身」することではない。僕の人生に「イエス・キリスト」という人が参加してくれるということだ(足し算)。それまで存在しなかった「赦し」や「愛」というものが、そうそう赦せない僕に付加される。僕は違う風景を生きることが出来る。僕は、相変わらずだが、僕の人生の風景は変わっていく。そういうことだと思う。
 だから、もっと、もっと、いろんな人と出会おうと思う。

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