信仰

6/2巻頭言「イエスは笑ったのか」

 聖書を読んでいるとイエスが「笑った」という場面はない。怒っていたり、悲しんだりはするので、当然「喜怒哀楽」がないわけではない。しかし明確に「笑った」場面はない。だから「イエスは笑わなかった」とは言えず、しょっちゅう(常に)笑っていたので書き残すまでもなかったのかも知れない。
一方で「イエスが笑わそうとしている場面」はいくつもある。思わず「そんなアホな」と突っ込みたくなる、そんな場面だ。
 「笑い」とは何か。「わはは」と笑えるということだけではない。桂枝雀は落語を「緊張の緩和」、「緊張」した状態が「緩和」されたとき人は笑うという。立川談志は「業(ごう)の肯定」、人間の弱さや愚かさを肯定することに落語の意味を見出した。落語が「笑い」だけとは言えないが(人情噺しで泣かされることは多々ある)落語がもたらす最良の結果の一つが「笑い」だとすると、両達人が言いたかったのは「多くの人が思っている前提が覆された時に笑いは起こる」という事だと思う。
 例えば先週の宣教では、イエスの種まきの譬えを用いた。ある農夫が種をまいた。ある種は道端に落ち鳥に食われた。ある種は石地に落ちて枯れてしまう。ある種はいばらの中に落ち、いばらが邪魔して成長できない。しかし良い地にまかれた種は百倍の実をつけた。その後「種」は「神の言葉」という事になり、普通に読めば「あなたも良い地になりましょう」と理解できる。だが、それでは「面白くもなんともない」。「当たり前じゃねえか」と言いたい。つまり笑えない。
 だがイエスがこの話しを「まじめに」している様子を想像したい。そうすると「そんな農夫はおらんやろう」と突っ込みたくなる。農夫はあまりにも「のんき」で「おおらか」だから。大事な種を良し悪しお構いなく蒔く。人々の常識(緊張)を覆す行為だし、悪い地という「業」を肯定している。そう考えると「この人、俺を笑わそうとしているな」と思える。
 「変な」場面は他にもある。四人の友人は病気の友人の助けるためイエスに遭わせようとイエスの滞在していた家の屋根を引っ剥がし病人を吊り下げた。家にはイエスを一目見ようと多くの群衆が詰めかけていたのだ。そうまでもして友人を助けようとする「友情と信仰」の場面に見える。イエスも「彼らの信仰を見」て病人を癒す。しかしどうだろうか。「そんなことしたらその家の人はその晩からどうやって生活するわけ。それはいかんやろう」と突っ込みたくなる。もう、笑うしかない。
 イエスに高価な香油を注いだ女性がいた。「イエスの弔いの準備をした」とされる。「深い信仰」を示している場面。だが想像してみて欲しい。食事中に突然近寄ってきた女性が壷ごと香油(香水)をイエスの頭から注いだ。「すごい信仰」などと言っている場合ではない。「わああああああ」っていう場面だ。そんなことをされたイエスが「私によいことをしてくれたのだ」と落ち着いて答えているのはどう見ても「可笑しい」。
 そういう目で聖書を見れば、あなたはきっと笑える。イエスは仏頂面のあなたを思わず「っぷ」と噴出させようと今日も企んで知る。イエスは笑わない。どう見ても変な場面をまじめにイエスがやることで人を笑わせようとしておられる。プロのコメディアンは自分があまり笑わない。お客を笑わせるのが仕事だからだ。よし、今日も笑わせていただくか。

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