僕は、鞄の中に「大吟醸」を忍ばせていた。見舞いに行く度に「今度こそ一杯飲ましてやろう」と思っていた。しかし、なぜか見舞った日に限って親父は発熱しておりそれどころではなかった。仕方なくストローをスポイト替わりにし「オレンジジュース」を飲ませる。実はこれもダメだったが内緒でやった。たった数滴のジュースに親父は「うまい、うまい」と目を細めた。「よーし、次こそは酒と鰻だ」と決意を新たに家路についた。
その後も「絶飲食」は続いた。「誤嚥性肺炎」が治まらないのだから仕方ないが、親父の手や足はわら半紙のようになっていった。見舞いに訪れる兄貴の家族が「ニベア」(保湿クリーム)を塗る。そんな日々が続いた。
ある日、兄貴から電話があった。ニベアの缶が驚くほど早くなくなるという。新しいものを買っても数日で空になると。見舞いは兄の家族が入れ替わり行ってくれていたので、たまたま「塗る人」が多かっただけだったのかも知れない。だが兄は「もしかしたら親父が食べたのかも知れない」と心配していた。今となってはわからないが、あの状況ではそんなことになったとしても不思議ではない。兄貴の報告を聴いた僕は「これはいかん。次に行った時には絶対に鰻を食べさせる。それで死んでも仕方ない。酒も飲んでもらう」と決めた。その数日後だった。「親父が逝った」と兄貴からの連絡が入ったのは。
その日のことは良く覚えている。厚労省関係の会合があり新橋駅に着いたところだった。あまり他人に言わないが、今まで何度か身近な人が亡くなるタイミングで急に具合が悪くなるということがあった。 「虫の知らせ」というやつか。僕は神秘主義者でないしオカルト話にも興味はない。しかし、その日も急に具合が悪くなり、痛みというか嫌悪感が全身を波打った。「これはまずい、救急車を呼ぶか」と思案しつつ、一方で「誰だ(逝ったのは)?」と心の中でつぶやいた。その時だった。携帯電話が鳴ったのが。「親父が逝った」と知った時、痛みは治まった。
その後、厚労省の方々と合流し親父が亡くなったことを告げると、すぐに帰った方がいいと皆が言ってくださり、その足で滋賀に向かった。親父は、葬儀場の一室の布団に寝かされていた。飲んでくれる人を失った「大吟醸」は実家の冷蔵庫に残されたままだった。(これは一年後、仏壇の前で親父と呑むことになる。)
お通夜の後、兄貴が準備した「おとき(葬儀の時の食事)」は精進料理のかけらもない、鰻あり、刺身あり、肉ありのごちそうだった。孫たちも駆けつけ親父の敵討ちとばかりにみんな腹いっぱいに食べて「親父」を語った。 (つづく)
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