生きる

12/10巻頭言「破れとパンイチ」

 希望のまちの寄付のお願いも佳境となり全国を飛び回っている。朝、高知に飛んで講演し、終了と共に東京へ。ホテルに鞄を置いてすぐに厚労省の勉強会へ。その後懇親会で楽しいひと時。明日は朝から国交省。

 ホテルに戻る。やれやれとズボンを脱ぐ。パンイチ(パンツ一丁)で部屋をうろうろ。我が家でパンイチは日常だが、誰もいないホテルとはいえ東京のど真ん中だと少々恥ずかしい。だがパンイチは解放感があって僕は好き。街中でやると大変なことになるのでご注意(当然!)。

 脱いだズボンを見てびっくり!なんとおしりが破れている。股が裂けたのではない。なんと擦り切れておしりに指が三本入るぐらいの大きな穴が開いている。あああ!全然気づかなかった。これを履いてあちこち行っていた。気付いた人いたかなあ。先日の講演会場、ドッカン大うけだったのはまさかおしりだったりして。見るとポケットの縁も擦り切れている。10年履いた。冬物なのでこの季節だけの付き合いだが、いつの間にかこんなになっていた。申し訳ないぐらいくたびれたズボン。

 翌朝、国交省の会議は澄ました顔で済ませた。よしよし誰も気づいてない。その足で東京駅の紳士服店へ。すぐに裾上げができるというので少し高いが購入。やはり新しいズボンは気持ちいい。「お客様、このおズボンはどうしましょうか」と店員さんが穴あきズボンの処遇を尋ねる。「もういりませんから捨ててください」と言いかけたが足元で小さくクシャクシャになったズボンが恨めしそうに僕を見る。持って帰って継ぎ接ぎするわけにもいかない。が、おいても行けず。「ズボン供養」でもしてやるか。

 「破れ」は気づかないうちに広がっていた。自分でもわからない。周りも気づかない。おしりだったから余計にそう。自分も見れない場所だったし、周囲も僕のおしりなど興味はない(当然!)。「見てくれ」と頼まれても嫌だろうし(もっと当然!)。だが気づかれないところで「破れ」は広がる。
人間の「破れ」もそうだ。表面的には大丈夫を装っている。周りもそう見ている。だが案外擦り切れてたりして。俺ヤバイかも・・・。

 そんな自分に気づくにはどうしたらいいか。ひとまずパンイチ。カッコウをつけずに脱いでみる。全部 でなくても良い(当然!)。さすがに全部脱ぐと我が家でも捕まる(当然の当然!笑)。だから脱げるところまで脱いでみる。澄まし顔で頑張っているのを一旦止める。なかなか難しい。でも、パンイチ最高!本当の自分、少々「破れかけている自分」と向き合う。すると「ああ、これは大変」と気づく。気づかないといつまでも頑張ってしまいに取り返しが付かないことになる。まじめで頑張り屋さんの人は特にご注意を。ちなみに僕はそんなタイプです(自分で言うな!)。大丈夫か、俺。

 脱げない時代を僕らは生きている。脱いで等身大の自分が露わなると「はずかしい」と思う。「評価が落ちるのでは」と心配になる。でも全部破れたら大変だ。だから早目のパンイチをお勧めしたい。恥ずかしいけどたまにはいいぞ、パンイチは!

 そもそも人間ってどこか恥ずかしい存在なのだ。キリスト教ではそれを罪人と言う。みんな本質的に「破れ」を抱えて生きている。隠しているだけ。たまにはその事実に立ち返る。

 ホテルの部屋。パンイチでこの原稿を書いている。横で穴あきズボンが僕を見つめる。「お疲れ様、俺」。さて寝るか。明日も早い。

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