「ケアは家族が担うもの」。それが常識とされてきた。家族が引き受けるのは悪いことではない。しかし、ケアを家族だけに押し付けた結果「ケアの社会化」は進まなかった。「身内の責任」と言って周りは助けない。そもそも身内がいない、いても縁が切れている。そんな現実を30年以上見てきた。
抱樸では「他人が家族に成ればいい」と考えた。2014年「地域互助会」をスタートさせた。家族を機能として捉え、機能を担った人を家族と呼んだらいい。「家族だから葬式を出すべき」と世間は言ってきた。でも最期に家族が来ない(来れない)。だから赤の他人が葬儀を出す仕組みを創った。「葬式(という機能)した人が家族」なのだ。
そんな風に多くの人を見送った。毎年秋に故人を「偲ぶ会」が開催さる。今年も多くの方々が参加された。「〇〇さんは大酒のみでタクシーで出かけてパトカーで帰ってくる。そんな人やった」。自身もアルコールに振り回された方が「アル中」の故人を偲ぶ。笑いと涙が会場にあふれる。今年は208人の方々の写真と名前が並んだ。昨年より10人増。実は前日も葬儀がありM さんを送った。抱樸は出会いから看取りまで。
高田渡さんが「鎮静剤」という歌を歌っている。マリー・ローランサンの詩に高田さんがメロディーをつけた。「退屈な女よりもっと哀れなのは悲しい女です。悲しい女よりもっと哀れなのは不幸な女です。不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です。病気の女よりもっと哀れなのは寄る辺ない女です。寄る辺ない女よりももっと哀れなのは死んだ女です。死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女です」。死ぬよりも哀れなこと、それは「忘れられる」こと。そうだと思う。抱樸の35年は、「忘れられる」こととの闘いだった。病気や死は避けられない。しかし、忘れることは避けられる。皆が覚え続ければ良い。悪口でもなんでもいい。「あいつは大酒のみやった」と懐かしむ。それで良いのだ。
しかし、人の記憶は曖昧で悲しいかな、忘れてしまう。忘れるのも人であり、それは人を守ることでもある。しんどいこと、辛いことをいつまでも忘れられないと身がもたない。だが、少し自己弁護的に言うと「あなたのことを忘れたのではありません。思い出せなかっただけです」と言いたい。人が出会った事実は記憶だけではなく、心の深層に刻み付けられる。時に急に懐かしくなることがある。悲しくて涙があふれる。それは出会った人が、先に天国に行った親父さんが風景の中に現れているからだ。「あああ、あなたは死んでしまったけれどお元気ですか。僕はまだ生きています」と間抜けな挨拶を交わす。風の中で親父さんたちが笑っている。
抱樸は「ひとりにしない」ということを追求してきた。それは僕自身ひとりじゃさびしから。だから死んでからも僕らはつながり続ける。思い出せなくてもつながり続ける。意地でもつながり続ける。分断と孤立、薄情が絡まりあったこの世界に対する闘いだ。抱樸はそうであり続けて欲しい。
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