生きる

7/30巻頭言 「『家族だから』から『だから家族』への転換 その①」

 抱樸では2013年「子ども家族まるごと支援」をはじめた。特に力を入れたのが「訪問型学習支援」。学校に行けない、子ども食堂にも行けない、そんな子どもの家庭を訪問し学習支援を行う。そうするとその家庭が抱える様々な困難が見えてくる。さらに誰にも相談できない「家族まるごと孤立状態」であることが明らかになった。だから「家族まるごと」の支援が必要だった。しかし、これは「その家庭の問題」とは簡単に言えない。そもそも社会が「家庭」に「責任」を押し付けてきた結果でもある。「親が悪い」「身内の責任」と周囲はいう。課題のある親も当然いる。だからと言って「親が悪い」だけではどうしようもない。「子育て」や「ケア」を家庭内に押し込めてきた日本社会の現実が透けて見える。
そんな中、こども家庭庁がスタートした。「異次元の子育て支援」が始まるという。何が「異次元」かはさておき、それはそれで良いことだと思う。そもそもこの国の家族関係における社会保障支出はGDP比で1.36%(2011年)。英3.78%、仏2.85%、独2.11%に比べると相当低い。ちなみに米0.72%。これを手本にはできない。
 一方で「こども庁」として議論されてきたものが終盤になって「こども家庭庁」になったことは気になる。「子どもは家庭で育つ」という考えが強く反映されたと言われている。しかし、私たちが出会ってきた多くの子ども、若者は「そんな考え」とは無縁の現実を生きてきた。現在、子どもの虐待件数は年間20万件を超え、さらに増加し続けている。この背景には「子どもは親の所有物」という親子観がある。親自身がそのように子どもを捉えているということも問題だが、社会の側が「子育ては親の責任」と言い切り、結果無責任になっていることも問題だ。
これは子育てに限らず、「身内の責任」という意識が強い日本社会において介護や障害者ケア、看病、夫婦問題も「身内の責任」とされてきた。できる人はそれでいいが、それが「常識・当たり前」と言われるとそうはいかない人が少なくない。「身内の責任」は必ずしても「常識」ではない。それを「当然あるかのように前提する」と「他人は手出しができない」が社会通念となる。結果「手遅れ」が生じる。虐待死、無理心中など最悪の事態も後を絶たない。無理心中は、親の都合で子どもを道連れにすること。子どもが「所有物」のように扱われた結果だ。それは社会が「身内の責任」と一歩引いた結果だともいえる。子どもは別人格であり一人の人だ。親の自殺をどう止めるかが課題だが、同時に子どもが親に巻き込まれることを避けるためにどうしたらいいのか。
 名は体を表すというが「こども庁」ならば必ずしも家庭が前提とはならない。身内に固守せず、みんなで子どもを育てればよい。その枠組みがまずは前提として成立する中でのみ「身内の責任」は問われてよい。それが「あるべき順番」だと思う。

つづく

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