生きる

4/30巻頭言「自分と自分」西日本新聞エッセイ その⑱

(西日本新聞でエッセイを書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
現在、僕は三人の方の「身元引受人」をしている。何とか時間をやりくりして刑務所に面会に行く。分厚いアクリル板に隔たれた面会室。奥の扉が開き本人が入って来る。体調はどうか、足りないものがないか、出所後のことなど短い時間に詰め込む。生い立ちを聴く。僕とは全く違う人生を歩んで来られた方々。
そんな面会の帰り道僕は考える。「向こう側」と「こっち側」。何が違うか。僕はたまたま恵まれたに過ぎない。一つ、二つ条件が欠けていたら「向こう側」に座っていたかも知れない。つくづくそう思う。
僕は関西の生まれ。関西人は自分のことを「自分」というが相手のことも「自分」と言う。「自分、こないだ来る言うとったやんけ」は、「あなたは、先日、参加すると表明していたではないでしょうか」という意味になる。「自分はそんなことせーへんけど、自分ら絶対そんなことしたらあかんで」は、「私は、そのようなことはいたしませんが、皆さん絶対にそのようなことをしてはなりませんよ」という意味。「私という自分」と「あなたという自分」が同じ「自分」で表現される。これはとても面白い。そして意義深いと思う。
「自分と自分」の関係は「僕が向こう側にいても不思議ではない」ということのみならず、「向こう側に座るその人に自分を見る」ということをも意味している。少々、ややこしい話になったが、僕はこれまで出会ってきた人々の中に「僕自身」を見てきたように思う。「とんでもない人」と思いつつ、その人の中に「自分」を見る。「全くの他人」とは言えない。個々人が背負ってきたもの、悲しみ、苦しみ、弱さ、切なさ、すべて違う。それが「わかる」とも言えない。しかし「自分とあの人は違う」とは言い切れないのだ。「自分と自分」という共通性のようなものを見る。そして、それは往々にして「弱さ」だったりする。同じ弱さを抱える「自分と自分」。そんな思いで人と出会えると少し世の中があたたかくなると思う。

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