(西日本新聞でエッセイと書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
2001年春、僕らはホームレス状態の人のための「自立支援住宅」を開設しようとしていた。たった五室だったが皆でお金を出し合いアパートを借り上げることが出来た。僕らは長い間「シェルター設置」を市に求めていた。毎年数人が路上で亡くなる。この現実に「市が何とかして欲しい」と訴え続けた。
しかし、それは違うのではないか。結局のところ当事者からすれば誰から助けられても関係ない。「市の責任」を追及することで「自分の責任」を曖昧にしてきたのではないか(当然公的責任はあるのだが)。そんなことに気付くまで十年もかかった。それで「自立支援住宅」を創った。
当時、市内のホームレス数は200人を越えていた。入居の募集をすると70人以上が申し込んだ。「多くが自立を望んでいる」。僕らは手ごたえを感じた。
しかしそれからが大変だった。70人から5人を選ぶ。選考会議は困難を極め深夜に及んだ。「高齢、病人優先」。何を基準にしても絶対はない。若くても明日亡くなるかも知れない。それが野宿の現実だ。
この人を選びあの人を落とす。しかし、あの人が直後に死んだらどうする。公募し期待をかけた上で落とす。一層絶望は深まるのではないか。「やらなかった方が良かったのでは」。そんな思いさえ浮かぶ。
僕はホワイトボードに「罪人の運動」と書いた。覚悟を決めるしかない。「良いことをしている」では済まされない。どこまでも罪人の行動に過ぎないのだ。結果、亡くなったら「僕らの責任だ」と言うしかない。
翌週の炊き出しの時、僕は説明を始めた。「今回は高齢者、病人を中心に選びました。この時点で連絡が無かった人はすべて落選です。大変申し訳ない。でも僕らはやります。理解して欲しい」。一瞬炊き出し会場は静まりかえった。が、その後「やってくれ、がんばれよ」の声と共に拍手が起こった。少し赦された気がした。これまで自立支援住宅を利用した人は200人を越えた。罪人の運動。僕らは今もそれを続けている。
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