(西日本新聞でエッセイと書くことになった。50回連載。考えてみたら、これをここに全部載せると一年かかるので飛ばし飛ばしやります。)
僕は長年困窮者支援に関わって来た。それは、目の前で困っている人と寄り添い、支援することであったが、その先に「平和への道」を見てきたように思う。今年二月、ロシアのウクライナ侵攻で始まった戦争は今も続いている。どれだけハイテク兵器が開発されても結局は歩兵部隊が投入される。戦争は人と人とが殺し合うことだ。だとすると、戦場に行ってくれる人がいなければ戦争は出来ないという事になる。
人が戦争に行く理由は三つあると考えている。一つは「貧しさ」。米国は1973年に徴兵制を終えたが、その後も各地の戦場に兵士を送り続けている。どうしてそれは可能なのか。格差と貧困が進む社会において人は「食べるため」に戦場に行く。貧困が戦争を支え、戦争が更なる貧困を生む。
次に「さびしさ」。人は自分の役割を求め生きている。誰かに必要とされることが生きる意味を与える。この間支援した若者たちの多くが「自分はどうでもいい命」と言っていた。認めてもらいたい。必要とされたい。人として当然の心情だ。それが叶わず「さびしい」思いを引きずりながら生きてきた若者に国家が「名誉」をぶらさげて「君の勇気が必要だ」と焚きつける。そんな幻想的な意味付けに頼らずとも誰もが認められ、必要とされる社会があれば誰が戦場になど行くものか。
三つ目は「学びのなさ」である。暴力に対抗するのは「更なる暴力」ではない。「ことば」だ。「銃の前ではことばなど無力」と多くの人は諦めている。そうだろうか。人は「ことば」を交わし信頼を築く。憲法も条約もすべて「ことば」に対する信頼の上に立っている。抱樸にたどり着く若者の多くが学校に行っていない。行けなかった。だから「ことば」を持っていない。「ことば」を持たない人は、自分の思いを伝えることが出来ず結果暴力的にもなる。教育が重要な理由はここにある。
抱樸が、困窮孤立者、子ども・若者支援をやり続けるのは、戦争を阻止するためでもある。
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