社会

10/30巻頭言「故人を悼むということ―私が国葬に反対する理由 その③」

 故人を悼むことにおいて大切なのは「私との関係」で、それは実態的でなくてはならない。ただ、それは「実際に会ったことがあるか」とか「友人である」という単純なことではない。例えば「美空ひばりの歌にいつも励まされた」と言うファンが「ひばり」さんの死に衝撃を受けるのは当然である。「ひばりの歌に何度も救われた」という個人の思いが裏付けとなっている。だから、その「つながり」の中でファンは「ひばり」さんを追悼し喪に服す。「服喪」にはそのような「実態」が伴わないといけない。
 安倍晋三さんの死は衝撃だった。「非業の死」ということもあり惜しむ声もある。選挙中の事件であり、「民主主義への挑戦」「言論弾圧テロ」だと報じられたが、後に旧統一教会と政治家をめぐる癒着の末に起こった「恨み」に関わる事件だったと判明。特に、この宗教グループを応援していたと見られた安倍元首相が被害家族から襲撃されたのだ。思想的には「愛国者」であり「タカ派」と自認する安倍さんが、「日本は”エバ国家”で『サタン(悪魔)の国』である。教祖の恨(ハン)を晴らすのは『エバ国家日本をアダム国家韓国の植民地にすること』『天皇を自分(文鮮明)にひれ伏させること』」など主張していた旧統一教会を応援するのは誰が見ても矛盾している。また、旧統一教会の被害は裁判所の判決においても明白である。とはいえ、当然のことであるが、どんな理由があっても殺人を肯定する理由にはならない。
 国葬を巡っては反対が六割にも達していた。その中での「強行」。反対の理由としては、「国葬の法的根拠がない」「秘密保護法、安保法制、森本学園、加計学園、桜を見る会など、疑惑の渦中にいた人は国葬に値しない」「税金を使って行うことには反対」などがあった。賛成する人は「憲政史上最長の総理大臣であった」「外交、経済での功績があった」、もしくは「非業の死」という亡くなり方から「民主主義を守る」「テロに屈しない」などがあったと思う。
 私は、安倍さんの悼む「個人」がいても当然良いと考えている。私のような単なる個人に比べ安倍さんを悼む人が多くいることは不思議ではない。その人にとって安倍さんの存在が大きく、その死がまさに「二人称の死」として受け取らざるを得ない場合、それは「他人ごと」では済まない。
 「死んだ人のことは悪く言わない」という日本の空気の中で反対と言い難い面もあった。さらに報道の仕方では「英雄視」する人も現れる。「献花」に訪れた人の中には「あまり知らない」という人もいたと思う。それにせよ、自分の意思で「悼ん」でおられることに僕は異を唱えることは出来ない。個人としてその人の死を悼むことは「自由」である。

つづく

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