社会

10/9巻頭言「『わからない』と言える―不可解への耐性」最終回

(丸善出版に頼まれて「學鐙」二〇二二年秋号に原稿を書いた。)
その後の内野さんであるが、思い切って飲んでもらうことにした。とはいえ「思う存分」とはいかない。本人と話し合い、日々の手持ち金を一定に管理することにした。それ以上は飲めない範疇で内野さんはお酒を再開した。楽しく、うるさい内野さんが戻って来た。当然、問題も起こったが、以前のように月に何度も呼び出されるようなことはなく、年に数度、地域の方から叱られる程度に失敗できるようになった。
 「正解」を見出すために「スーパービジョンやフォローアップ研修」をするのも良いが、それ以上に「死なない程度に失敗できる」ということを忘れないでいたい。本当は、「わからない」ことだらけなのに何か「正解」を答えなければならないと背伸びをしてきた。わからなくてもいいのだ。私たちには「不可解への耐性」が必要だ。
「正解」を求め「間違った解釈(ボンフェッファー)」をしないこと。「わからない」と正直に言うこと。それが言えないと「失敗」を致命傷のように感じてしまう。解決しなくてもつながり続けること。失敗してもどっこい生きている。わからないけどただ一緒にいる。死なない程度に失敗できる。
混沌とした時代を生きるために必要な事だと思う。   
 以上

(ちなみに、ここで紹介した「伴走型支援」であるが、本年度より日本福祉大学において通信講座が開講される。詳しくは、検索☞日本福祉大学 伴走型支援基礎講座)

【追記】
 ただ、「不可解性への耐性」は「探求をあきらめる」ことではない。真偽不明の情報の洪水の中で浮き沈みしている私たちは、常に「それは真実か」を追求しなければならない。とはいえ「正解」にはたどり着かない。「正解がないという頼りなさ」の中で生きていく。その「頼りなさ」に耐えきれず、安易に誰かの作った「正解のようなもの」に甘んじるのではなく、それでも探求し続ける。そのために「不可解性への耐性」は必要なのだと思う。「よく解らない(不可解)」といいながら、それに耐え「探求」し続ける。その終わりなき「探求」の旅を可能にするのが「不可解性への耐性」であると私は考える。

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