平和

直感的平和

親父(おやじ)は、日本軍として中国戦線に出兵、敗戦と同時にシベリヤに抑留された。酷い目に遭ったのだろう。だから明確だった。「知志、戦争だけはアカン」。説明などない。「なんで?」と尋ねる余地も無かった。ことばに「権威」があったからだ。それは「戦争を経験したという事実」から来る「直感」だからだ。国際情勢の分析もエビデンス(証拠)も経験者の言葉には勝てない。戦争に翻弄され、悲しい思いをし、自分の「狂気」を経験した者は、「直感」的に「戦争はアカン」と断言できる。
今年の「長崎平和宣言」は、日本政府に対して「核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにもかかわらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください」と強いことばで訴えた。同日被爆者五団体代表らも安倍総理に核兵器禁止条約への署名を求めた。「あなたはどこの国の総理ですか」と問い詰めたが、安倍総理は「わが国のアプローチと異なる。署名、批准を行う考えはない」とその後表明。
「どこの国の総理か」。唯一の戦争被爆国の総理としての「直感」を問うたのだ。「そんなこと当然だろう」と。長崎平和宣言は「遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください」と迫る。「もし、自分が、家族がそこにいたら・・・」。この想像を欠いては平和の必然性も戦争の無用性も語れない。確かに、直接体験した人と同じにはなれない。しかし、それでもなお「自分の家族がそこにいたら」と想像することで私たちは核を「直感的」に否定でき、「核兵器は絶対悪だ」と断言し、あらゆる戦争を否定できる。議論だけで平和から構築できない。経験に基づく「直感」が必要なのだ。戦後、一定の期間が過ぎると「戦争には正義の戦争と悪の戦争がある」などという輩(やから)が登場した。「直感」が薄れたのだ。だから私たちは「直感」のある人、つまり「地獄を経験した人」と会い、目で見て、耳で聴いて、心で感じ、想像することで「直感」を補うしかない。
モーセの十戒は「~してはならない」と私たちを戒める。旧約学者の関根正雄は、これを「否定の推量」と解釈し「~する事などありえない」と訳した。つまり「殺してはならない」ではなく「殺す事などありえない」となる。奴隷の地エジプトで何人も殺され、苦しみ抜いた体験を持つイスラエルの民が、誰かを殺すことなどありえない。殺されてきた彼らだから「直感」的に殺人を否定するのだ。
原爆を二度も落とされたこの国が「核兵器を肯定する事などありえない」。それ以外のことを言えるはずがない。これは理屈ではない。「直感」的否定だ。この「直感」無き総理が再び国民を戦争の惨禍に巻き込む。私たちは「この国の歴史(体験)を生きる民」として「直感」的に「核兵器などありえない」と言い切り、「直感的」に平和憲法は必要だと言い切る。

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