生きる

キリスト教愛真高校―孤独に思考する学校

島根県江津市の山間にその学校はある。生徒は五〇名程。全員が寮で生活をしつつ学んでいる。「人は何のために生きるのか」を考えるために設立されたのが愛真高校だ。学校には「チャイム」がない。生徒らは自分で判断で集まり、授業が始まる。食事も生徒自身が準備する。わが家は長男が六年前に卒業し、現在次男が在校している。

十年以前になるか、初めて愛真高校を訪ねた時のことを鮮明に覚えている。長男と学校見学に行ったのだ。最初は教頭面談。当時息子は沖縄の八重山、鳩間島に暮らしていた。いじめ、不登校、色々あった中学時代を生き延び、愛真高校への入学を考えていた。教頭の小田先生(当時)は「君はなぜ、沖縄にいるの」と尋ねられ、息子の話しをひたすら聴いて下さった。訥々(とつとつ)とだが、自分の言葉で語ろうとする息子に小田先生は根気強く耳を傾けられた。

次に校長面談。打って変わって渡辺校長(当時)は、「なぜこの学校がつくられたのか」について内村鑑三から始まる歴史と自らの思いを語り続けられた。それは一時間におよんだ。詳しくすべてを覚えているわけではないが、この学校が「信仰」と「献身(本気)」によって成立していることがよく分かった。最後に「何か質問がありますか」と尋ねられた息子は、「この学校には、日の丸、君が代はありますか」と尋ねた。彼は小学校の時から日の丸、君が代に反対していたのだ。渡辺校長はこう話された。「戦争時代、勇んで戦争に行った人もいました。本当は行きたくはなかったけれど、家族のことを考えてしょうがなく戦場に行った人もいました。ある人は、戦争は間違っていると言って兵役を拒否し牢屋に入れられました。それで殺された人も。答えは一つじゃないんだよ。君は君の答えを聖書と向き合う中で自ら考えるんだ。自分の答えを考えるために、君はこの学校で学ぶんだ。・・・ただ一応言っておきますが、愛真高校には日の丸、君が代はありません。」私自身が入学したいと思ったことを覚えている。

長男は愛真高校を卒業、数年後、国会で意見を述べることに。「どうか、どうか政治家の先生たちも、個人でいてください。政治家である前に、派閥に属する前に、グループに属する前に、たった一人の『個』であってください。自分の信じる正しさに向かい、勇気を持って孤独に思考し、判断し、行動してください。」彼の姿に愛真高校を感じた。

次男は、現在愛真高校二年生。最近はやさしさに強さが増してきたように思う。「孤独に思考し、判断し、行動」しているからだと思う。ずいぶん親ばかな文章になってきたので、これぐらいでやめておく。

イエスは時に山に登り独りになって祈られた。あれだけ人々と共におられたイエスだが、いや、だからこそ「孤独」が必要だったと思う。キルケゴールは神の前に「単独者」であることを語り、ボンヘッファーは「独りでいることができない人は共にいることを注意すべき」と警告した。いずれにせよ「孤独」を知る者が共に生きることの本当の意味を知るのだと思う。

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