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社会

つくりだす人は幸い

「都民ファースト」圧勝。というより「自民」の惨敗で都議会選挙は終わった。国政選挙と地方選挙は違うとは言え、この結果は現在の自民、特に安倍政権に対する批判であったことは明らかだ。段々と批判が高まっていたことは、内閣不支持率の高まりを見ても良くわかる。ただ、国政ではその批判の受け皿が無い中で「都民」が登場したことによって、そこに票が流れた。ただ、そういう現象だと思う。つまり、「都民」を選んだわけでもない。
確かに、国政選挙は別物で今解散総選挙をやったとしても、批判の受け皿が無いとなると「安倍続投」になるかも知れない。自民党が派閥を活用し党内で議論できるようにし、ある程度相対化できた方が良いという意見もある。だが、それが問題で「政権交代」がかつて望まれたと思う。
いずれにしても今回の選挙結果は、政権に対する「批判」が噴出したことに因る。そこでの問題は「オータナティブ(もうひとつ別のもの)」が無かったということ。そもそも安倍総理と小池知事は、共にタカ派政治家で、特に国家主義的な姿勢は親和性が強く、共に「日本会議」のメンバーである。表向きは対立しても、裏ではしっかり握手をしている方々だ。すなわち「結果は明確に分かれたが、何もまだ選ばれていない」のは大問題だ。中身がないということ。これがポピュリズムの実態だと思う。九州からそんな「都(みやこ)の出来事」を見ていると「大敗」との大騒ぎとは裏腹に、何がどう変わったのかてんで分からない。繰り返すが地方選挙は、政権が変わるような場面ではないので「何も変わらない」と愚痴っても意味はないが、これだけ対抗軸がない社会、選択肢がない社会であることへの危機感を持った方が良い。ちなみに「共産がいるではないか」「民進がいるではないか」と言いたい人もいるだろうが、中身からすると「相当な対抗馬」と言いたいが、民衆には「対抗馬」には見えていない。このままでは二大政党制にもならず、かといって巨大与党内の派閥相対化も図られず、結局「安倍」という「一人の人」への人気の上がり下がりが全てという社会に終わってしまう。
「反対」ということが如何に大事かは言うまでもない。今日のようにモノが言えない時代になりつつある中、「安倍はやめろ」と声を上げた民衆が秋葉原に登場した意味は大きい。しばしば権力者は「反対するなら対案を出せ」というが、そもそも権力者が勝手に作った枠組みなのだから、それに反対を言わず対案を出すと「議論に乗ってしまう」ことになりかねない。だから、権力者が「対案を出せ」と迫るのは卑怯なやり口だと思う。
しかし、「反対」は「入口」に過ぎない。「入口」は常に開いている方が良い。だが、「反対」そのものには歴史形成力はない。「反対」ではなく、また「対案を出せ」と言われてでもなく、「これでないと困る」と提案したい。
イエスは「平和を造り出す者は幸い」と言った。「戦争反対」も重要だ。特に今日の局面においては。しかしイエスは、反対ではなく「つくれ」と言う。「平和とは何であって、それをたとえ一人になっても造り出す」。それは反対よりも大事だと。そのことが見えない限り、今回の「都民ファースト」の一件は、何か新しいものがつくられたとは言えず、単なる「内紛」だったとするしかない。「都民」圧勝は、一層危険な時代に突入した印のように思う。

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