社会

7/17巻頭言「故人を悼むということ」

 故人を悼むということは、極めて「個人の内面に関わる事柄」である。人の死との向き合いには「差異」がある。例えばフランスの哲学者ウラジミール・ジャンケレヴィッチが言う「死の人称」である。一つは「一人称の死」、つまり「私の死」である。自分自身のことであって、誰に代わってもらうことが出来ない死である。二つの目は「二人称の死」、つまり「あなたの死」である。親や配偶者、子ども、親友、知人、恩人など、自分にとって大切な人の死を指す。「二人称の死」は関係が深い分、自分の一部がもぎ取られたような痛みと悲しみを伴う。そして「三人称の死」。「彼、もしくは彼らの死」である。つまり「他人の死」。日々報じられる事件や事故で亡くなった人がこれに当たる。よほど想像力を働かせない限り、私達はそれを受け流す。これは「冷たい」という事ではない。すべての死が「一人称」や「二人称」の重みをもって迫ってくるならば、私達は耐えられなくなる。だから「死の人称」に従ってその受け止め方を変えるのである。

 故人を悼むことにおいて大切なのは「私との関係」で、それは実態的でなくてはならない。「実際に会ったことがあるか」という単純なことではない。例えば「あの歌手には、いつも励まされた」というファンがその人の死を重く受け止め泣くことはある。「あの歌手の歌に何度も救われた」という個人の思いが裏付けとして存在するからだ。

 先日の安倍晋三さんの死は多くの人に衝撃を与えた。非業の死ということもあり、死を惜しむ声が多い。ただこの事件は「民主主義への挑戦」というものではない。カルト宗教の被害を受けた家族がその宗教グループを応援していた安倍首相を襲撃した事件である。いずれにせよ、安倍さんの死を悼む個人がいても良い。その人にとって安倍さんの存在が大きく「二人称」として受け取っているのなら。マスコミが「英雄」扱いした結果、それまではそこまで考えも、感じてもいなかった人が「安倍さんのおかげ」と言い出しているとすればどうかと思うが。

 ともあれ個人が安倍さんを悼むことは個人の自由だ。しかし、それを「国葬」という形で押し付けるのは間違っている。僕にとって安倍さんの死は「三人称の死」。「国葬だから」と強制的に「二人称の死にしろ」と言われても無理。その人を悼むというのは、その人との関わりの中で必然的に起こる「心の営み」である。また「安倍さんの功績からすれば当然」とか、逆に「秘密保護法、安保法制、森友学園、加計学園、桜を見る会など、そんな人は国葬に値しない」というのも違う。功績があるとか、無いとかが問題ではない。故人を悼むという極めて「個人の内面」に関わる事柄に国は関与してはならないということだ。

 私は、個人として、その人、その人との関係の中で死を悼んできた。それは「私とあなた」という個人の関係において「私の心が悼んでいる」という極めて内面の事柄であった。この最も大切な「心の営み」に国が踏み込んではいけない。ましてや誰かの死を利用して人の気持ちを操作するなど絶対にあってはいけない。それは、家族と知人、つまり、個々人に任せるべきだ。はっきり言うが、放っておいていただきたいと思う。

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