映画「重力の光」の終盤、「キリストの受難と復活」が東八幡教会の「少々わけあり」の人々によって演じられる。はじめてキリスト教に触れた方、キリスト教を知りつつも「少々違和感」を覚えながら見た方、思いはさまざまだと思う。この作品は石原海監督の「信仰告白」であり、彼女が何を信じているのか、何を信じたいかを表明したものだからだ。そもそも「信仰理解」に正解などない。この映画は、監督と登場人物たちの自分語りと「信仰告白」によって成立している。そこで僕(一応牧師である)も少し「信仰告白」をしてみたい。
イエスは、こともあろうか弟子に裏切られる。権力者に逮捕され磔(はりつけ)になる。たった数日前、イエスを大歓迎した民衆は「殺せ、殺せ」と叫び、遂にはイエス自身が「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と絶叫し死ぬ。
しかし、イエスは三日の後に復活した。なぜイエスは復活するのか。「それでは終われないから」だと私は思う。考えて欲しい。権力の暴走、弟子たちの裏切り、虐殺。それで終わっていいはずがない。権力者たちは邪魔者を消すことで「勝った」と思う。「死人に口なし」。それが権力者の因って立つところだ。それで終わるとしたら一体どうなるのか。権力者は、弟子たちは、そのままでいいのか。殺された人々はどうなる。権力者への裁きと彼らの解放はどうなる。なにより「見捨てて終わりの神」でいいはずがない。そんな神はいらない。十字架、つまり「イエスの死」をもってすべてが終わるなら「強いもの勝ち、悪い奴が勝つ」が結論となる。「終わらせるわけにはいかない」からイエスは復活するのだ。
ただそれは、恨みを晴らすためではない。通常なら復活ではなく「化けで出る」場面だ。にも拘わらず復活のイエス は弟子たちに「シャローム」、つまり「平和であるように」とあいさつをした。「そうか復活とはそういうことなのか」と私は思う。あの出来事を忘れているわけではない。彼の手には釘跡があり、脇腹には槍跡がある。でも「絶対許さんぞ。仕返ししてやる」とは復活のイエスは言わない。それでは同じことの繰り返しになるだけだ。そういう終わり方を終わらせるためにイエスは復活する。矛盾と暴力が支配する世界に戻って来たイエスは「新しいいのち」を生きる。それが「シャローム」なのだ。
映画の中で少々こじんまりとした「最後の晩餐」(本当は一二人+イエス)が演じられる。「裏切るのはまさか私ではないでしょう」と、とぼけるユダにイエスは「いや、あなただ」と言い放つ。イエスの処刑を知ったユダは「自分は何をしているのかわからない」(これは本当はパウロのことば)と苦しみ自らいのちを絶つ。「イエスを裏切ったのだから当然だ」と考える人は少なくない。しかし、そんなユダだから、なおさらそれで終わっていいはずがない。「キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きる」と聖書は語る。だからユダも復活する。復活したユダにもイエスは「平和でいなさい」と告げたに違いない。さぞバツが悪かったろう。だけども裏切りと弱さで終わらないためにユダはイエスと再会する。ユダはその日、新しいいのちを生き始める。
戦争が続いている。若者たちが殺し合っている。殺した人も殺された人もそれで終わっていいはずがない。力でねじ伏せた者が勝っておしまい。それが結論でいいはずがない。「相手の死」をもって終わらせようとするゆがんだ世界にイエスは戻って来る。「そんなことで終わっていいはずがなかろうが」とイエスは言う。絶望を身近に感じるこの時代にあっても私たちは諦めない。殺されてもあきらめない。それでは終わらせない。新しいいのちを生きることが出来るのだ。そのためにイエスには復活してもらわないと困る。私の信仰告白である。
この記事へのコメントはありません。