この間、戦争の知らせに心がつぶれそうな中で考えたことを書く。
私は「ウクライナ支援」という立場をとらない。当然、ロシアを支持しない。ロシアの行為は、国際法違反であり大領領が「自衛のため」といくら叫んでもあれは一方的な侵略に他ならない。だが、だからと言って「ウクライナを応援する」ということにはならない。なぜならば、いくら自衛のためだと言っても現にウクライナは国民に戦争をさせている。立つべき原則は「NO WAR―戦争を止めろ」だ。だから、どちらかの国を支援するというのはいけない。だから、どちらの国の人でも戦争の被害を受けた人は助かって欲しいし、なんとかしたいと思う。
ウクライナの大統領が日本の国会で演説をした。それに対して山東参議院議長が「閣下が先頭に立ち、貴国の人々が命をも顧みず、祖国のために戦っている姿を拝見して、その勇気に感動しております」と述べた。戦争は政治と外交の失敗である。ウクライナ大統領が先頭に立つべきは戦争にならないための行動であって、戦争という事態を招いた挙句、総動員令に署名し「60歳以下の男性の出国を禁止」し戦闘に向かうように命じた大統領に感動してどうする。この大統領をほめたたえる国会議員がいるということは、わが国も同様に無責任な政治家がいることを示している。そもそも日本は「参戦権を放棄」した国だ(憲法9条)。自衛のための戦争も自ら禁じた。その国の最高機関の議長が国民を戦場に強制的に向かわせる大統領を感動しつつ賞賛する。これは危ない。
ウィル・スミスの作品はよく見てきた。嫌いではない。先日のアカデミー賞授賞式での暴力について議論が続いている。私は、あの事件が戦争と呼応的に起こったように思えてならない。プレゼンターだった友人のクリス・ロックが脱毛症に悩まされているスミスの妻をネタにしたジョークを飛ばした。これにウイルが腹を立てクリスを平手打ちした。「いかなる理由があっても暴力はだめ」と米国では声が上がった。その通りだ。ただ私は「いかなる理由があっても」ではなく、もう一歩踏み込んで「どれだけ正当な理由があっても」と言うべきだと米国の人々に言いたい。なぜなら、すべての戦争は「正義」や「いのち(国民)を守る」という「正当な理由」で始まるからだ。今回のロシアの侵攻も「ネオナチからロシア人を守る」という理由だった。侮辱的で差別的な発言がダメなのは当然で、ウィルが怒るのも当然だ。しかし、この「当然が暴力を肯定する根拠にはならない」のだ。クリスが行ったのは人格否定であり言葉に因る暴力だ。それに腹を立て平手打ちという暴力で応えると結局暴力を肯定していることになる。戦争も同じで「平和のために戦争する」という矛盾したことが成立する。それが戦争だ。平和が「目的」なら「手段」は「目的―平和」に従属しなければならない。「平和のための戦争」は「手段」が「目的」を否定している。さらに妻が侮辱されたことに夫が怒るのは当然だが、暴力をふるったウィルを「妻を守る夫の鑑」のように言うのもいけない。戦争は、マッチョな男の美学として描かれてきた。ウィルはそんな男を演じてきたなあ。苦しんだ妻が置いてけぼりになっていないか。
「剣をとる者は剣にて滅びる」(イエスのことば)。戦争反対、暴力反対。これを前提にするしかないのだ。
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