11/7巻頭言「あれから三年―松ちゃん、会いたいよ その㉙」

その後、松ちゃんは、約束取りお酒を断った。これまで何人ものアルコール依存症の人を見てきたので、この病気の厄介さは身に染みてわかっている。中には10年近く断酒し、その後突如飲み始めたというツワモノもおらっしゃる。一筋縄ではいかないのが依存症である。

僕自身好きな方なので「止めなさい」というのもつらい。かと言って「僕も一緒に止めましょう」とも言えない。考えるに、僕らは、なぜお酒を飲むのだろうか。お酒自体が美味しいということももちろんある。しかし、それ以上に大きいのは、誰かと一緒に呑むことが楽しいからだと思う。悪友の大森さんがしばしば我が家にお越しになるのは、決してお酒が呑みたいわけではない。寂しいのだと思う。何よりも僕自身がそうだからよくわかる。ただ、そんな風に飲んでいる限り大きく乱れることはない。「やばくなる」と周囲が止めてくれるからだ。もちろん「失敗する権利」もある。依存症の人の多くは、まじめで気持ちの優しい人が多いように思う。その分、人付き合いが上手くない人も多い。寂しい結果の一人酒。これがどんどんと深みにはまっていく。だから、依存症にならないために必要なのは「誰かと一緒にいること」なのではないか。寂しいというのがどうもいけない。呑むなら誰かと一緒に呑む。社会は依存症に対して「絶対ダメ」の一辺倒で向き合ってきた。薬物依存に対してはまさにそれを徹底してきた。しかし、そのような100・ゼロの対応ではうまく行かないということも徐々にわかってきた。海外では薬物依存に対して「ハームリダクション」という考え方が広がっている。これは、「個人が健康被害や危険をもたらす行動習慣(合法・違法を問わない)をただちにやめることができないとき、その行動に伴う害や危険をできるかぎり少なくすることを目的としてとられる、公衆衛生上の実践、指針、政策を指す。主に嗜癖・依存症に対するものを指し、直訳すれば『害 (harm) の低減 (reduction)』となる。」(ウィキペディアより)ということだ。この考え方は、アルコール依存症においても有効だと思う。

さて、松ちゃんの断酒はどこまで続くだろうか。松ちゃんが自分と向き合おうとしていたことは痛いほどわかった。僕の本音は、「止められたらそれでいい。でも、やめられなくても付き合う」ということだった。もし今後も吞むのなら、誰かと一緒に呑めるようにしたら良い。そうしたら「あんまりなこと」にはならない。と、信じている。松ちゃんの第二の船出は、そんな風にはじまった。

とはいえ心配だった僕は、しばしば松ちゃん家を訪ねていた。出張から帰るとお土産を持って訪問した。お土産は決まってお酒だった。「一年がんばるから、明けたら奥田さん一緒に呑もうや」と松ちゃんは繰り返し言っていた。だから僕は「約束の品」を献上させていただいた。断酒をしている人の家にお酒を届けるなど「もってのほか」と承知の上で僕はその一年、お酒を抱えて松ちゃんの家を訪ねたのだ。 

つづく

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