そんなこんなで、松ちゃんは周囲の心配の声をよそに入院はせず、地域で一人暮らしを始めることになった。僕らは松ちゃんと約束を交わした。「一年間は飲まない」、「飲んだら入院する」。松ちゃんは、抵抗することもなく、その約束を引き受けた。自立支援住宅入居から約一年。いろいろなことがあり過ぎたが、松ちゃんはついにひとり暮らしを始めた。僕らの心配をよそに、松ちゃんは真顔で「まあ、大船に乗ったつもりで」と言い切ったのだ。今までのように茶化して言っている感じはなく、松ちゃんは真顔でそういうのだった。僕らはそんな松ちゃんを「不思議な安心感」をもって見つめていた。それは、信じられるとか、信じられないとか、ということではなかった。あるいは「さすがの松ちゃんもこれで落ち着くに違いない」という確信でもなかった。いや、その点でいうと「これで治まるはずがない」というのが正直な気持ちだったと思う。しかし、あの時点で僕らがもった「不思議な安心感」というのは、そういうことでは全くなく「この上何が起こったとしても大丈夫」という安心感だった。僕らは松ちゃんと生きてきた。良くも悪くも一緒に過ごした日々がある。ある時は怒り、ある時は無事の知らせに安堵し、期待と失望が何度も何度も押し寄せた。そんな日々の中で当初は切れそうな細い糸が、複数になり、縒(よ)りがかけられ、紡がれていった。僕らと松ちゃんの「つながり」は、もう誰がなんと言おうと事実、綱のように互いを引き留めていたのだ。僕らは「安心」していた。「何も起こりませんように」と正直に祈りつつ「何が起ころうが大丈夫」だと安心していたのだ。
僕はといえば、この辺りから急激に忙しくなり始めた。2008年のリーマンショックの影響は大きく、派遣切りや雇止めの挙句路上に投げ出される若者が街にあふれ始めていた。その年の暮れ、東京では「年越し派遣村」が始まり、小倉にも二〇代のホームレスが現れた。これは今までにない状況だった。
NPO法人抱樸では、北九州市と協議し市内にシェルターを6室確保することになり、現場は忙しくなった。その後、厚生労働省ではリーマンショックの教訓から新しい困窮者支援を模索する議論が始まろうとしていた。その一つがパーソナルサポートサービスである。従来のように制度に人を当てはめて支援を講じるのではなく、個々の状況に合わせてパーソナルな支援計画を作成し包括的、横断的に対応するというものだった。全国5カ所でパイロット事業がはじまり、僕らは福岡のパイロット事業を引き受けた。また、厚労省の検討会議や審議会に呼ばれるようにもなった。それに加え講演会の依頼が殺到した。僕および抱樸が忙しくなった原因はリーマンショックであることは間違いないが、実はもう一つ契機となった出来事があった。それはあるドキュメンタリー番組の放送だった。
つづく
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