社会

7/25巻頭言「『ひとりにしない』という社会を目指して」

(故郷である滋賀県大津市から原稿の依頼があった。松ちゃんは、一回休み)

私は大津市秋葉台の出身です。琵琶湖と家族をはじめ暖かい人のつながりの中で育ちました。現在は北九州市に居を構え、ホームレスや生活困窮者の支援をするNPO抱樸(ほうぼく)の代表をしています。

「社会的孤立」は、大変深刻な状態だと言えます。OECD(経済開発機構)の2005年調査では、日本の孤立率(家族以外とのつながりがない率)は15.3%。これは英国の3倍、米国の五倍となっています。国は、この事態に対応するために2月に孤独・孤立担当大臣を設置しました。では、なぜ孤立が問題なのでしょうか。

第一に「自分自身からの疎外」です。人は他者との出会いを通して自分を認知します。他者性を喪失する時、私たちは自分の状態が認識できず、自分の存在意義も見失います。孤立が深刻化するほど、自分が危機的状態にあること自体が認識できない。これでは「助けて」と言うこと自体が起こらないということになります。第二に「生きる意欲・働く意欲の低下」です。「何のために働くのか」との問いに「自分のため」と応えるのは当然です。しかし「自分のため」を基軸とする「内発的な動機」は、常に「脆弱さ」を伴います。つまり自分が諦めた時、すべてが終わってしまうからです。これに対して「誰かのため」を基軸とする「外発的な動機」を持つ人は踏ん張ることが出来ます。「家族のため」「愛する人のため」という、他者とのつながりの中で人は「意欲」と「動機」を醸成させます。第三に「社会的サポートとつながらない」です。いくら良い制度を創っても、それを知らない、教えてくれる人がいない、つないでくれる人がいないならば「存在しない」のと同じです。結果、対処が遅れ問題が深刻化し意欲は一層低下します。すべてが「手遅れ状態」となり、結果、社会保障のコストも増大します。

孤立を促進された原因の一つに「自己責任論」があります。「自分自身の責任を負うこと」、あるいは「負えること」はとても大切です。しかし、現在しばしば耳にする「自己責任」という言い方は「周囲が助けないための理由」として用いられているように思います。「まずは自助、ダメなら共助(周囲の助け)、最後は公助」と言われますが、これは間違っていると私は考えます。自助が本当に発揮されるためには「周りも全力であなたを支えます。国もあなたを応援します。だから、あなた自身もがんばってください」という体制が必要です。先の言葉のように、自分がダメになったら周囲に頼り、自分も周囲もダメになったら国に頼るという考え方では、国にたどり着いた時には「もはや手遅れ」という事態になりかねません。自助は、共助と公助が並行して存在する時に本当の力を発揮します。かつて「つながり」は、主に「家族」において担われてきました。しかし単身化が進み、家族の力が落ちてきた現状においては、すべてを「身内の責任」に押し付けることは出来ません。例えば80歳の親に50歳のひきこもりの子どもがいる、いわゆる「八〇五〇問題」は、「身内の責任」にのみ押し付けてきた現在の社会の象徴的な風景だと言えます。これまで「身内(家族)」に押し付けてきたことを、いかにして地域が担えるか。「家族機能の社会化」が今後の地域共生社会の大きな役割だと私は思っています。

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