北海道、新富良野プリンスホテルの森の中に「森の時計」というカフェがある。倉本聰脚本のドラマ「やさしい時間」の舞台となったカフェだ。現在もそのまま保存されカフェとして使われている。入口を入ると奥にL字型のカウンターがあり、お客はそこで自分のコーヒー豆をミルで挽く。カウンターの向こう、全面ガラスの先には熊笹の森が広がっている。静かな店内にコーヒーを挽く音が響く。ドラマでは、子どもを残し死んだ母親役の大竹しのぶが夫である寺尾聰が入れるコーヒーを飲んでいた。
札幌の北星学園大学での講演を終え、伴子と二人で少し羽を伸ばしに富良野に寄った。そして「森の時計」へ。二回目だったが、少し懐かしい感じがした。コーヒーをいただき森を見つめた。壁には、倉本聰自筆の「森の時計はゆっくり時を刻む」という額が掛けられている。確かに、ここの時間は「ゆっくり」感じる。
時に振り回されて生きる現代人にとって、森に入るということは「ゆっくり刻まれる時」というものがあることを思い起こさせる。たとえそれが、プリンスホテルが人気ドラマを活用し商業的に造ったカフェであったとしても、森自体は本物なので、やはりそこには倉本さんがいう「ゆっくり」が存在しているようだ。
時というものは不思議で、確かに「早い」と「ゆっくり」がある。朝起きて仕事に出る、あるいは学校に行くまでのひと時は、本当にアッという間に過ぎていく。面白くない話、嫌なことだと「長く」感じる。礼拝に出席されている皆さまは、宣教の時を「早い」と感じておられるか、はたまた「遅い」と感じておられるか。 前に茂木健一郎さんとご一緒した時、新しいことに取り組んでいるときの時間は長く感じると言っておられた。小学校一年生の時は、時間がゆっくり進んだ。新しいことの連続だったからだ。一方で、物事に熱中していると、その時間は短く感じられる。これは「脳科学的に正しい」らしい。時間は、自分の感じ方で長くも短くもなるのだ。そういえばアインシュタインの相対性理論では、時間も空間も絶対的ではなく相対的で、長くなったり、短くなったりすると言っていた。まあ、凡人であるわたしには、さっぱりわからないのだが、いずれにせよ、倉本さんの言うように「ゆっくり時を刻む」ということが実際に起こりうるようだ。
「すべてのわざには時がある。生るるに時があり、死ぬるに時があり、植えるに時があり、植えたものを抜くに時があり、殺すに時があり、いやすに時があり、(中略)愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある。(中略)神のなされることは皆その時にかなって美しい」これは、旧約聖書伝道の書である。旧約の知者は、私たちがどう感じるかということではなく、神の時を問題にした。そして、それは早くもなく、遅くもなく、「時にかなって美しい」と。
早く過ぎ去る時があり、ゆっくり刻む時がある。時には「ゆっくり刻む時」に出会うため森に行こう。しかし、時を「美しい」と思える感性を持ちたい。早くとも、遅くとも、「時」は叶う。いや、これは感性ではなく信仰だ。人生のすべての時は、神様からすれば遅くも早くもなく「時にかなって美しい」。神の時を信じたい。結婚二九年の記念の旅だった。いろいろあったが、時に叶っていたと思う。
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