平和

涙が出るほど学ぶ

沖縄平和の旅に出かけた。子どもと大人総勢二二名が参加した。東八幡教会では、長崎、広島、沖縄の順で春に平和の旅に出かける。今回で四度目の沖縄となる。
平良修牧師のことばを聞いた。「戦争のことや平和のことを学ぶのに、なぜ皆さんは沖縄に来るのですか。なぜ、福岡では戦争のことを学ぶことができないのですか。戦争のことを本当にわかるためにはどうすればいいでしょうか。それは、もう一度戦争をすることです。自分自身が戦争を体験すると戦争のことが解ります。しかし、それはできないですよね。だから、戦争を体験した場所に行って、実際に戦争を体験した人の話しを聴くしかないのです。沖縄は住民を巻き込んだ唯一の地上戦が行われた場所です。皆さんには涙が出るほど学んでほしい。」このことばは痛い。僕はキチンと泣けていない。
毎回平和資料館は急ぎ足で回る。平良先生のことばもあり、今回は展示はともかく、ひたすら「証言」を読んだ。胸が詰まるような証言、気分が悪くなるような事実。読む、読む、読む。涙が出そうになる。でも出なかった。七〇年後の「平和資料館」で読む「証言」。安全な場所で読んでいるに過ぎない。平良牧師の言う通り。それは体験ではない。「わかったような思いになったらいけない」という直感が涙を止めたのか、あるいは感受性の鈍さか。涙は出なかった。「涙がでるほどの学ぶ」とは、どういうことか。
日本にある米軍基地の七〇%が沖縄に集中している。第二位青森は七%に過ぎない。多くの日本人はその事実を知らない。日米安保が日本の「安全」のために必要であるのなら、東京に米軍基地をつくればいい。だが絶対にしない。基地が危ないことを知っているからだ。「そんなもの引き受けたくない」。これが本音だ。しかし、それを平気で沖縄に押し付ける。それは「差別」に他ならない。自分が嫌なことを押し付けるには、相手を異化し、見下し、あるいは無視するかしかない。沖縄県民は日本人口の一%に過ぎない。九九%の国民が差別を常態化させている。涙がでないのは、この差別に対する私の悔い改めが足りないからだ。
旅の主題聖句は「兄弟を愛する者は、光におるのであって、つまずくことはない。兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩くのであって、自分ではどこへ行くのかわからない。やみが彼の目を見えなくしたからである」(第一ヨハネ二章)。閉会礼拝を担当した。でも、この箇所から話すことは出来なかった。聖書時代「兄弟」と言う言葉はユダヤ同胞を意味した。兄弟愛と言っても民族(国)愛に過ぎなかった。だからイエスは「兄弟を愛するに留まってはならない、敵を愛せ」と言われた。しかし、この狭い意味での「兄弟」にさえなっていない日本と沖縄。これは愛する、憎む以前の問題だ。兄弟という意識すらない。だから、涙がでない。 パウロは、教会を一つの身体と表現した。「もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩む」(第一コリント一二章二六節)。からだは一つである故、痛みを全身で感じる。歯だけが痛むことなどない。だが沖縄と日本は分断されている故、痛みを感じない。私は、痛みも感じず、涙も流さずのうのうと生きている。「涙がでるほど学びなさい。」私は、まだ何も学んでいないと思う。涙がでないのがその証拠だ。この現実にたじろぐことから始めたい。

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