社会

高江を訪ねて―四つの『いかん』

十月二七日沖縄キリスト教学院に招かれた。翌日高江を訪ねた。日本政府は二〇年前の基地返還計画に基づき米軍北部訓練場を縮小を決めた。その条件として高江にヘリパッドえお建設することを決めた。当初はヘリコプタ訓練場とされていたが、実際はオスプレイが使っている。参議院選挙で与党が勝った翌日、住民の反対を押し切って工事が再開された。現地では連日反対住民と警察との間で激しいやり取りが続いている。

現地を訪れて四つの「いかん」を思った。第一の「いかん」は日本政府。この国の為政者は、誰を見ているのか。主権者たる国民を見ない自国政府とは何か。口先では「アメリカからの押しつけ憲法だ」などと言っているが、実際には安保法制にしてもアメリカの子分ではないか。「お前どこの子や」と言いたい。沖縄戦においては、日本軍が沖縄の人々を守るどころか殺し、集団強制自決に追い込んだ。守ってくれるはずの日本国軍が住民を敵視した。現地に到着したとたん十名ほどの機動隊員に囲まれた。彼らは国民ではなく、米軍基地を守っている。これで主権国家と言えるか。「いかん」。

第二の「いかん」は、ヤマト(内地)のメディアはこの現実を報道しないし、ヤマトの多くの人が関心がないこと。百歩譲ってヘリパットが日本防衛のためだとすれば、沖縄以外の日本人は、毎日高江のことを感謝の涙を流しながら見守るべきだろう。あるいはアメリカによる主権侵害であるのなら「日本の危機」として高江の様子を伺い米国に抗議すべきだろう。右翼諸君は何をしているのか。すぐに高江に駆けつけて、日本の領土を防衛すべきではないか。なのに「日米安保撤廃」も「自国自主防衛」も言わない。これも「いかん」。

第三に「いかん」のは、問題になった「シナ人」「土人」発言。明確な差別発言である。これに対して反対住民も暴言を吐いていると批判する輩もいる。大阪の松井知事がそうだが、もし反対住民側の暴言があったとしても、そもそも権力者の発言と庶民の発言は本質的違うことを認識すべきだ。権力者の発言は暴力と一体化している。庶民のことばは暴力を持たない者たちのささやかな抵抗である。暴言を肯定するわけではないが、ピストル持っている人に対して「悪口くらいしかない」。口で勝負する、それが庶民なのだ。これも「いかん」。

第四に「いかん」のは、結局高江で現在起こっている対立が庶民同士の対立になっていること。「土人」と発言した機動隊員の顔を見た。正直「この子もたいへんだろう」と思った。体を張る最前線に投入される若者も反対住民もこの国の構造からするとあまり変わらない「位置(ポジション)」にいる。反対住民にしても、コマのように投入される機動隊員にしても、本来向き合わなければならない相手は別にいる。対立が激化するほど本命は隠され、マスコミも「土人」発言に集中していく。そしていざ戦争となるとその庶民同士が殺し合う。これは「いかん」。

人々を踏みつけ基地建設は進んでいく。イエスは言う。「だから彼らを恐れるな。(中略)わたしが暗やみであなたがたに話すことを、明るみで言え。耳にささやかれたことを、屋根の上で言いひろめよ。また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」(マタイ福音書十章)。私たちは、黙らない。私たちは恐れない。

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