信仰

1/3巻頭言「今日、祈りとは何か」その①

1、請願成就―「応えられた祈り」
 私は牧師なので「祈ること」は日常になっている。キリスト教における祈りには、1)感謝の祈り、2)お願いの祈り、そして3)とりなしの祈り、ということが一般的だと言える。「祈り」は「お願い」が多いが、キリスト教では「とりなしの祈り」、つまり「他者のための祈り」が重視されている。
とはいうものの、人は苦しい時に「自分のため」に祈る。病気、災難、人生の思いがけない苦難が襲う日、人は祈らざるを得ない。「ご利益宗教」という言葉があるが、それ自体悪いことではない。むしろ人の正直な思いが「祈り」に出る方が神様も喜ばれると思う。
しかし、残念ながらどれだけ熱心に祈ろうと成就するとは限らない。苦難の中で弱気になっている時、「どこそこの神様はよく効く」などと言われると心が揺れる。「カルト宗教」が人を惹きつけるのはそのためだ。人はご利益を求めてさまよう。だが、大半はそんなところに通っても「弱り目に祟り目」がせいのやまだ。
信頼のおける宗教であるかは、「祈り」に対する姿勢で決まる。つまり、「祈り」を「自己実現」の道具とするか、それとも「神仏の意志」を知る機会とするか。それが問われる。つまり「請願成就」という時の主体が問われる。祈りの主体が「自分」か「超越者」か。自分の思い通りの神様を探し、その神に祈る。気持ちはわかるが、それでいいだろうか。
旧約聖書に登場する「モーセの十戒」にこんな言葉がある。「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない」。一般に「偶像礼拝の禁止」と言われる箇所で「自分の神だけが本当の神であとは偽物」という一神教の傲慢さとして受け取られる箇所でもある。しかし、重要なのは「自分のために」を禁止している部分である。人間は、ややもすると自分のために神をも創る。それが偶像(偽物)なのだ。自分の願いを叶える神は、もはや人間の奴隷に過ぎない。そうではなく「祈り」とは、自らの願いを神仏に申し上げつつも、最終的には神仏の意志を確認することにある。それは、時に自分の思いを超え、それを否定するものでさえある。イエスは、十字架に架けられる直前「この杯をわたしから取りのけてください」と祈った。つまり、十字架から逃してほしいとイエスでさえ祈るのだ。しかし、その願いは叶わない。だから、イエスは最後に「わたしの思いではなく、みこころのままになさってください」と祈った。この「みこころ(神の思い)のままに」という祈りを持つか。それが、祈りにとって重要である。

つづく

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