社会

12/27巻頭言「逃げ遅れのひとりごと―新刊はじめにより」

【今週のことば】 
(新刊「『逃げ遅れた』伴走者」が刊行されました。もうすぐ現物が届きます。これは、この間、あちこちに書いた物を集めた本です。この本の収益は、NPOの活動に使われます。)
はじめに―逃げ遅れのひとり言
「逃げ遅れた伴走者」―本書はそう名付けられた。
ときおり取材を受ける。「なぜ、30年以上もこのような活動を続けられるのか」。質問の答えに窮する。「揺るがない信念」、「消えない情熱」、「海よりも深い愛」・・・。そんな言葉がちりばめられた返答が期待されているのだろうが、申し訳ないがそう答えるわけにはいかない。
始めた頃、少しは「そんな大それたこと」を考えた。だが、それは瞬く間に現実の中で潰えた。正直「逃げ出したい」「もうやめたい」そんな思いに何度もなった。どれだけ手を伸ばしても届かない人の現実は、私達を諦念へと常に誘った。
一方、「出会った責任」ということが常に問われた。人は出会ってしまうと「無かったこと」にはできない。だから「出会った責任がある」と自分たちに言い聞かせた。だが「責任」ってなんだ。そもそも人が人に対して「責任を取る」ことなどできるのか。そんな葛藤の中で「出会った責任がある」という事と「出会った責任を取る」という事は全く違うということに気づかされた。私達は、「責任を取ること」はできない。どんなに頑張ったとしても。だから「出会った責任がある」とただ、ただ言い続けたのだ。責任をとれないまま30年の月日が過ぎた。
「引き受ける勇気」はない。しかし、厄介なことに「逃げる勇気」もなかった。神は、人に「強靭な勇気」をお授けにはならなったのだ。「引き受ける」と思うと腰が引ける。しかし、この脆弱さには「皮肉な恵み」が含まれていた。そんな「気の弱さ」ゆえに「逃げる」こともできなかったということだ。「引き受ける」ことも出来ず、「逃げることもできない」。結果、「逃げ遅れた人々」が現場には残された。
「逃げる勇気がなかっただけ」と言うと、「立派」と評価された活動のメッキは剥げる。別に嘘を吐いた覚えはない。良い悪いの問題ではなく、それが私の、そして抱樸の現実だった。
「嫌だなあ」、「逃げたいなあ」、「なんで俺が」。そんなつぶやきが止めどなく現場から聞こえてくる。でも、「逃げる勇気はない」。仕方なく今日も現場に通う。私たちは、「素晴らしく弱かった」のだ。何が素晴らしかったのか。それは、たとえ仕方なくとも赴いた現場で思いがけない出会いを経験するからだ。それは、大変だけど決して不幸ではなかった。逃げ遅れたことに感謝さえできた。

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