【今週のことば】
(先日東京渋谷で起きたホームレス女性の殺害事件についてWEB論座用として準備している原稿です。今回は、その➃)
多くの野宿者が自分の食べ物を「エサ」と呼ぶ。関東でも、関西でも、そして九州の野宿者も。私が「人が食べているのだから『食べ物』と言ったらどうです」と言うと、「残飯を漁っているから犬や猫と一緒。だからエサだ」と彼らは言う。「エサ」ならまだ「食べ物」の範疇に留まるが、「ゴミ」はもはや「食べ物」ではない。突如襲撃されたホームレスの女性の悲劇を伝える記事であるにもかかわらず、残念ながら「想像力」に欠けている。「伝えなければならない」との正義感をもって記事を書いたと思う。当日トップニュースにもなった。しかし、そこに想像と共感はどれだけあったのか。
養老孟司は、著書の中で「教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである」と言う。無言のまま彼女を殴り殺す人。彼女のことを心配しつつも対話なき地域の人々。なけなしの食べ物を「食品のゴミ」と認識するジャーナリズムに欠落しているのは「教養」だ。すなわち「人の心」を理解しようとする営みである。想像する力、共感する力、そして連想する力が私たちには必要なのだ。どれだけ豊かになったとしても、どれだけ便利になったとしても、それらが不十分なら、私たちは「ただの無教養な民」となる。
犯人の四六歳の男性は、母親に付き添われて出頭したという。この家族がどのような状況にあったかも想像せねばなるまい。母子家庭。彼の父は生前「息子がひきこもっている」と心配していたともいう。いかなる事情であれ今回の事件を割り引いて考えることはできない。それでもなお、私達は、「自宅のバルコニーから見える世界が自分の全て」と近所に語っていたこの男性のことも想像するしかない。
いかなる理由であれ他者に対する「想像」を怠れば私達は他者を排除する「無教養な民」となってしまう。
「あんな大事(おおごと)になるとは思わなかった」と本人は言った。「大事(おおごと)」とは何を指すのか。「まさか死ぬとは思わなかったが死んでしまった。自分が殺人者になるとは思わなかった」ということか。そうならば、どこまでも「他者」不在の「無教養な男」と言わざるを得ない。自分のことしか考えない。それが「無教養」の証しだ。
殺されたから「大事(おおごと)」なのではない。64歳の女性が野宿せざる得ない現実が「大事(おおごと)」なのだ。「大事(おおごと)」、つまり「大変な事態」なのだ。社会は、その「大事(おおごと)」に気付くことなく、まるで「小事」のごとく受け流す。人の心を考えず、その人の苦しみも想像せず、一方的に排除する。そういう「無教養な社会」になっていることが最も「大事(おおごと)―大変な事態」なのだ。
つづく
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