東八幡キリスト教は、創立65周年を迎えました。コロナ状況における教会の意味を考える時を迎えたのです。「自粛」という言葉が跋扈する中、感染を考えるとやむを得ずという面があります。コロナ禍は、私たちにタブーを突きつけます。私たちは、ここ数カ月「何をしてはいけないか」を問い続けてきました。しかし、本当にそれでいいのでしょうか。
イエスの時代、安息日は何もしてはいけないという律法がありました。安息日は、今の土曜日、天地創造において最終日に神様が休まれたわけです。それで安息日に人は労働をしてはならないということになっていました。それを巡ってイエスと当時の宗教勢力がぶつかります。例えば、イエスの弟子が安息日に麦を摘んで食べたことを巡って論争が起きます。麦摘みは労働です。だから律法違反だとイエスの弟子は批判されました。また、イエスは安息日もお構いなしに病人を癒されました。これも大問題となりました。
イエスは、批判する人々に「あなたがたのうちに、一匹の羊を持っている人があるとして、もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら、手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも、はるかにすぐれているではないか。だから、安息日に良いことをするのは、正しいことである」と言いました(マタイ12章)。さらに、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2章)とも言われました。当時の宗教者は「安息日に何をしてはいけないか」を考えていました。しかし、イエスは「安息日に何をすべきか」を考えたのです。
コロナ禍を生きる私たちは、「何をしてはいけないか」「何ができないか」を考えてきました。この状況では「自粛」するしかない。しかし、ここにイエスがおられたら「何をすべきか考えなさい」と仰るんじゃないか。ステイホーム、人と会わない、行動の8割制限・・・。教会はそれだけでいいのか?
「ステイホーム」をしつつ「フロムホーム」を考えなければならないと思います。家からでもできることがあるんじゃないか。「安息日に善を行う」とイエスは言う。今、宗教者が問われていると思います。こんな時に「自粛」だけしている宗教者。どうなんでしょうか。マスクも来ない、給付金も来ない、ステイホームと言われても家もない。そんな人たちが現にいるわけです。彼らに対して宗教者は何をするのか。ここで考えないと、ここで行動しないと、ポストコロナにおいて宗教者は無用とされるでしょう。少し言い過ぎでしょうか。
「自粛」は、どこか自分のいのちを守ることが中心になっているように思います。本当は「他人を感染させない」ための自粛です。マスクも「自分が感染しない」というよりか「他人に感染させない」ということが重要です。それらは「利他」の精神です。まさに宗教の本義です。となると「自粛」もいいけど「安息日に正しいことをする」という事も考えなくてはいけない。それが創立記念日に私たちが考えることだと思うのです。
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