山田さん(仮名)が相談窓口に来られたのは二〇〇四年初夏のこと。年齢はすでに八十歳近いと思われた。公園の隅に自らテントを建てて暮らされていた。高齢でもあり、隣りのテントに暮らす通称サンちゃんが山田さんのことを心配し、「なんとかしてやって」と私のところに連れてこられた。相談が始まった。高齢で就職は難しい。あいにくNPOが運営する自前の自立支援住宅は満室だった。空きがでるまでは数か月かかる。直接アパート入居も検討したが、独居が可能か心配された。それは、山田さんが聞き取りの度に生年月日や履歴など、仰る内容が変わっていったから。だが、嘘をついている感じはしない。何らかの障がいか認知症の疑いがあった。だから、このままの直接居宅よりも、ともかく一旦入院してもらい、その後介護保険等の手続きをし居宅へというプランを立てた。だが病院での検査の結果は、「健康、入院不可」というものだった。大きな病気がないことがわかり安心した一方で具体的な手を打てないまま時間が過ぎていった。当時の北九州市は、路上からの生活保護申請を受付けないという方針だった。ご本人にも「今すぐ何とかしてほしい」という強い要望はなく、正直私もそのことに甘んじてしまった。
そして、忘れることのできない日、忘れてはいけない日が来る。二〇〇四年九月六日夜九時過ぎ、スタッフから緊急連絡が入った。「今警察から連絡があり現場に来ている。山田さんがテントの中で自ら命を断った」とのことだった。「しまった」頭の中が真っ白になった。私は凍りついた。
警察での検死、身元調査などに時間がかかり山田さんが私たちに引き渡されたのは九月二五日になっていた。遺体の状態が悪く、直接火葬場に向かうしかなかった。家族は見つからないままだった。炉前で葬儀。私は牧師である。しかし、ことばにならない。語る資格がないとも思われた。だが、逃げだす勇気もなく、神様にすがる思いで葬儀に臨んだ。「奥田さんのせいではない」と慰めてくれる人もいた。だが、出会った限り、自ら免罪することはできない。出会った責任がある。私たちは、それを大事にしてきたつもりだった。確かに、神様ではない、所詮人間である私が他人のいのちをどうこうできるはずはない。しかし、それでも出会ってしまったのだ。聴いてしまったのだ。その「責任」はある。「責任」をどう果たせばいいのか、あの日以来この問いが今も続いている。
葬儀で何を語ったか覚えていない。たぶん、自らを責めるような話もしたように思う。列の後ろの方で山田さんを紹介したサンちゃんが黙って聴いていた。収骨が始まった。サンちゃんはお骨をひとかけらハンカチに包み自分のポケットにいれた。「サンちゃん、ごめん」その一言が精一杯だった。「奥田さん、ありがとうね。世の中、どうしようもないこともある」とサンちゃんは言い、山田さんと一緒に帰っていった。
「支援」とは何であろうか。人が人を支援し、助けることなどできるのだろうか。助けているようで、実際には殺している、そんなことは実際起こる。でも、この「答えのない問い」から逃げてはいけないのだ。「責任」を果たすのは容易ではない。でも逃げないでいたい。なるべく。あれから一二年。私の長い一日は今も続いている。
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