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社会

7/26巻頭言「ポストコロナを生きるために その⑫」

これまで具体的、肉体的に出会ってきた私にとって、このコミュニケーションに慣れるには、相当時間がかかると思う。いや、「慣れない」ということでもない。このコミュニケーションに対する「疑念」が払しょくされないのだ。果たして僕は、この画面の人と出会っているのか、その確信が持てないでいる。
ホームレス支援の現場は「臭い」に満ちていた。長らくお風呂に入れなかった人、なかには「しかぶっている人」(北九州の方言でおもらしを言う)もいた。酒の臭い、汗の臭いが折り重なって「野宿臭」となる。道を行くと「野宿臭」がする。「いる。近くにおられる」と勘づき、捜すと暗闇にたたずむ人を発見する。ブルーシートのテント小屋の中で亡くなった人。しばらく発見されなかったので腐敗が進む。腐乱した身体からは凄まじい臭いが放たれる。一度それを嗅ぐと、数か月、数年、臭いは記憶となって残り続ける。そうやって出会い、その出会いに対する「責任」を自らに課してきた。
そんな私にとって「臭いが無い」ということが、どうも出会った気になれない原因だと思われる。結果、「出会った責任」という伴走型支援において最も重要な原則が薄れるのでは心配だ。
人、それも臭い付きの人と出会いたい。だが、コロナ状況下では許されない。しかし、それでもなお「どうやって出会うか」を模索し続けなければならない。「濃厚接触は過去、これからはネット」とはいかない。そうなのだ、私や抱樸は、おいそれとは「新しい生活様式」にはいけないのだ。
すでに述べたように、人は、お金や物だけでは立ち上がれない。ステイホームで孤立に拍車がかかる。しかし、生きる意味を与えてくれるのは他者との出会い、それも臭うような出会いなのだ。これは古くからある普遍的な本質だと思う。
6、不要不急―一方で「無くてならぬもの」    新型コロナは、「不要不急の外出を控える」という「新しい社会道徳」を生み出した。高速道路や駅の掲示板には連日この言葉が掲げられた。そして、私達はステイホームに専念した。「うつらない」以上に「うつさない」という他者性の重要さ故に「いのちを守る」という、少々大げさなスローガンも掲げられた。
息をひそめた数か月、テレワークにも慣れ始め、通勤ラッシュが懐かしく感じ始めた。そして「あの日々」を懐かしみつつ、「あの日々は何だったのか」との問いが私の中に芽生え始めていた。ともかく忙しかった。全国を飛び回り、講演会、取材、会議。そして、牧師の働き、困窮者支援。切れ目のない帯のような日々を私は歩み続けていた。いや、走り続けていたのだ。
「ブレーキの壊れた自動車」のような私に強制的にブレーキをかけたのがコロナだった。「あれをしなくて大丈夫か」「あそこに行かなくて大丈夫か」。当初不安は日々増大したが、数週間が過ぎた頃、「案外なるようになる」と思い始めた。
つづく

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