Hくんと出会ったのは今から一か月以上前のこと。
かつて自身も路上で苦労され、今は下関でお住まいのSさんから電話があり、Hくんの存在を知った。
Sさんに付き添われ炊き出し会場に現れたHくんは、実に丁寧な物言いの青年だった。三六歳だという。
家に戻ることを勧めたが「帰れない」と言う。「親にはこれ以上迷惑をかけられない」。これまで何があったか想像がつく。
親に連絡されることを恐れ、生活保護は申請しないとHくん。その後、電話連絡を取るようにしてもらい、時々会うようにもなった。
Hくんは、大学中退後十年間特殊法人に勤務しており、就職活動には積極的だった。次に小倉駅で会った彼はネクタイ姿だった。
パチンコ店の面接を受け内定をもらったという。しかし数日後「最終的に住所と携帯がないことが判明し、内定は取り消しになりました」としょげていた。
路上からの再就職は不可能だったが、それでも「頑張る」とHくんは言う。
野宿生活も一か月になろうとしていたある日「もう限界です」とHくんが連絡してきた。
ともかく生活保護を申請すること。当面我が家に来ること。そして親には私から連絡すること。この三点を彼と約束し次の段階へ。
さっそく両親へ連絡を入れた。捜していたという。
当初は旅費をこちらに送るから帰るように言ってくださいとのことだったが「それでは帰れないかもしれない」と忠告。すると父親が「私が迎えに行きます」と仰った。
翌日私と彼との待ち合わせ場所に突如(彼にとっては)お父さんが登場。
「帰ろう」の呼びかけにHくんは「うん」とうなずいた。三人で食事をしながらこれまでのいきさつを聞いた。
色々あったようだ。両親は彼のために何度も苦労したようだ。二人はホームへと帰っていった。
身内って難しい。確かに愛している。でも、だからこそ「赦せない」という思いになる。これは苦しい。
「あなたの赦せんという思いは愛してるから出ているんですよ」と解説してくれる他人が必要だ。解説者がいないと愛は憎しみを装う。
「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母にいわれた、『婦人よごらんなさい。これはあなたの子です』。そこからこの弟子に言われた、『ごらんなさい。これはあなたの母です』。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。(ヨハネ十九章)。
このイエスの一言が私達には必要なのだ。
Hくんといつか再会できる日を楽しみにしている。また会おう。君にあえてよかった。
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