志村けんさんや岡江久美子さんの死は衝撃だった。報道の中で私が最も心を揺さぶられたのは「看取ること」、「弔うこと」が出来なったという現実だった。遺体は「感染防止」のため火葬され、遺骨として家族のもとに戻ったという。遺体からの感染リスクを勘案した結果だという。通常「墓地、埋葬等に関する法律」によって、死後24時間以内の埋葬や火葬が禁じられているが、感染症患者の場合は24時間以内に火葬することとなる。遺体そのものからの感染リスクや濃厚接触者である家族が参列するリスクが想定され葬儀が出来ない事態となっている。最近では、葬儀参列者数が減少傾向にあり、コロナはそれに拍車をかけている。イタリアでは、感染者らの臨終の際、祝福を与えた司祭が少なくとも50人亡くなり、政府が結婚式や葬儀を禁じたという。
コロナの時代とは何か。それは「弔ってやれない」こと意味する。野宿時代「畳の上で死にたい」と言っていた方がアパートに入った後、「俺の最期は誰が看取ってくれるだろうか」とつぶやかれた。経済的困窮を脱しても「孤立」が解消されないのが問題だった。ゆえに、私達は「『ひとりにしない』という支援」を展開してきた。「僕が先に死んだら僕のお葬式に出ること。あなたが先に逝ったら僕がお葬式をします」。入居の日、必ず交わす約束だ。コロナ時代を生きる私達は、この約束を果たすことが出来なくなりつつある。
「看取る」「弔う」は、人間固有の行為であり「人であること」に関わる事柄だ。コロナとの闘いは感染防止と共に、この最も人間的行為が出来ない中で、いかにして私達が「人であり続けることが出来るか」という闘いでもある。どうしたものか。技術を駆使して感染防止を徹底し葬儀をすることもいずれ可能になると思うが、もっと本質的なことが大切だと思う。つまり「信じること」だ。
「看取り」や「弔い」と並ぶ人間固有のもの。それは「信仰」である。私達には、信じることが許されている。最も一緒にいてあげたい時に一緒にいてやれない。「たった独りで逝かせてしまった」という罪悪感が私達を苦しめる。そんな私達にイエスは言う。「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章)。私は、この言葉を信じる。
旧約聖書はへブル語で書かれているが、へブル語で「ことば」は「ダーバール」という。だが「ダーバール」には「出来事」という意味もある。天地創造(創世記)において神が「光あれ」とことばを発すると「光」が生まれる。ことばは現実となる。「終わりまで共にいる」も実行された現実である。彼は、彼女は、あの日、独りぼっちでは決してなかったのだ。イエスが共にいてくださった。それが聖書の告げる現実なのだ。あなたは信じるか。私は信じる。人は独りでは生きることも死ぬことも出来ないから。
私達はコロナの時代を生きている。人と会えない日々が続く。愛する者を看取ることも弔うことも出来ない。しかし、それでも私達は孤立しない。見捨てられない。私達が人として生き、人として死んでいくために「終わりまで共にいる方」を信じたいと思う。
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