生きる

2/16巻頭言「優しく想像する力」

夕暮れ時のホームには人があふれていた。人々は押し合いへし合い電車を待っている。僕の前には黒いジャンパーに大きなリックを背負った若者。彼は、なぜか左右に体をゆすっていた。リュックが後ろにいる僕にぶつかる。本人は気にしていないのか止める気配はない。リュックのチャックは半開き。「だらしのないやつだなあ。混雑したホームで何を踊っている。音楽でも聴いているのか。ほんとに・・・」と思うが注意する勇気はなく我慢する。右へ左へ彼は踊り続けた。遂にリュックが僕の携帯とぶつかりホームに転がる。気が付かないのか、謝りもせず彼は踊り続ける。「このやろう」と心の中で声が漏れる。
そこへ電車が到着。人々が動きだす。今がチャンス!どんな顔をしているか見てやろう。「あっ!」なんと、彼は胸に赤ちゃんを抱っこしていた。踊っていたのではない、「あやしていた」のだ。胸に抱かれた子どもはすやすやと眠っている。リュックの口からは、よだれ掛けが見えた。「ごめん。何にも知らずに。子育てがんばれ」とつぶやく僕。「自分勝手な若者」は、子どもをあやす優しい父だったのだ。
だが、そうならば「なぜ彼は一人なのだろう。この子のお母さんはどうしたんだろう。子どもを連れて実家に戻る途中か?なんで実家に戻る?こんな平日に子どもを連れて電車に乗る。仕事はどうした?離婚を機に故郷に帰り再出発か」。僕の想像は膨らんでいく。「随分若いが、息子と同じぐらいか。これから彼はどうするんだろうか」、心配になってきた。
だが、考えてみると、そもそもこの青年がその子の父親かわからない。するとまたぞろ想像が膨らむ。「姉の子どもだったりして。待てよ、となると姉さんはどうしたんだ?まさか、この子を置いて亡くなった?いやいや・・・じゃあ、なんだ?」。電車に揺られながら僕は延々と想像し続ける。すると彼はもはや他人とは思えなくなった。
「自分勝手な若者」も「子育てに懸命な若き父親」も、そして「姉の子どもをあずかる弟」も、単なる僕の想像でしかない。事実はわからない。だが、人には想像する力が備えられている。それをどう使うかが重要だ。想像することで人は攻撃的にもなり、やさしくもなれる。出来れば「やさしさく想像」したい。人は、想像することで自分の中に他人を住まわせることが出来る。するとその人は「他人」ではなくなる。
現代人は、他人とは関わらないように努力している。なるべく見ないように、考えないようにする。その結果「やさしさ」を失くす。事実かどうかはどうでも良い。大切なのは想像する力だ。しかも「やさしく想像する力」なのだ。
コロナウイルスで世界は疑心暗鬼になっている。根拠なき「恐怖」は悪しき想像力から来る。「中国人は危ない」は悪しき想像に過ぎない。そうではなく「思いがけず病気になったその人の気持ち」を想像しよう。少しは優しい気持ちになれる。想像力。それは世界を優しくする力なのだ。

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