NPO法人抱樸の支援の特徴の一つは「アウトリーチ(手を伸ばす)」。困難を抱える人々のところに「こちらから出向く」のだ。31年前、おにぎりと豚汁をもって路上の人々を訪ね始めた。「炊き出しパトロール」は今も活動の基軸だ。
なぜ、私たちは「アウトリーチ」せざるを得なかったのか。それは、困難を抱えた人、特にしんどい状況にある人ほど「助けて」と言えないからだ。「なんでもっと早く相談しなかったの」と言いたいところだが、自分から相談に来ない人が「最も苦しんでいる人」だ。にも拘わらず日本の福祉や社会保障は「申請主義」を原則としている。自分から「申し出ない」と受け付けてさえもらえないのだ。最後のセーフティーネットである生活保護でさえ「申請」が原則。だが、困窮者の多くは申請しない、いや「できない」でいる。
あるホームレスの言葉が忘れられない。「毎晩寝る前に『もう二度と目が覚めませんよう』と祈る」。「死んだ方がいい」とその人は祈っていた。そんな生きる意欲をそぎ落とされた人が「申請」するだろうか。「申請しないあなたが悪い」と自己責任論をぶつけても仕方ない。だから抱樸は「アウトリーチ」を基本とした。手を精一杯差し伸べて絶望する人を訪ね歩く。「生きて欲しい」という祈りを「あの絶望の祈り」と対峙させるために。
一回で何とかなる人はほとんどいない。その人の心に希望の灯が燈るまで訪ね続ける。「五回訪ねたからもう十分」とは言えない。六回目かも知れない。「五年間訪ねたからあきらめる」とは言わない。十年目かも知れない。人がもう一度生きる意欲をつかむには、それぞれに「時」がある。それは人が予定表に書き込めるような時(クロノス)ではない。いわば神様が定める時(カイロス)なのだ(どちらもギリシャ語の「時」)。「生きるに時があり、死ぬに時がある」(聖書)。それは人が勝手に決めることが出来ない時(カイロス)なのだ。だから、そんな時(カイロス)が来ることを信じて訪ねて歩く。それが抱樸だ。
今年もクリスマスを迎えた。クリスマスは救い主がこの世に「来られた」ことを表す。キリストは、天国でじっとしていることが出来なかった。愛する者を「訪ねた神」なのだ。一般に神様と言えば、社の奥に鎮座しておられ、信者が来るのを待っている。人は神を訪ねて「詣で」なければならない。もうすぐお正月。毎年、多くの人々が神様に会うために初詣に出かける。しかし、聖書の神は自らやって来られた。弱っている人、苦しんでいる人、「もう目が覚めませんように」と祈る人と出会うためであり、神様自ら声をかけ、彼らの声にならない声を聴くためだった。イエス・キリストもサンタクロースも、クリスマスは「アウトリーチ」が原則だ。それは、とても「ありがたい」ことなのだ。
抱樸は、この「クリスマスの原則」を自分たちのものとした。現在行われている毎週の炊き出しパトロールは、毎週クリスマスをやっているようなものだ。これからも抱樸は、声にならない声を聞くために町に出かけ続ける。
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