第67回日本社会福祉学会が大分大学で開催され、初日のセッションに呼ばれた。(実は二日目は台風の影響で中止になった)テーマは「自立は社会福祉の規範たり得るか」。一般的に自立(Independence)は、「他への従属から離れて独り立ちすること」であり、自立の対義語は依存(他に頼って存在、または生活すること)だと言われる。確かに「従属」状態では自立したと言えない。とは言え、一切他人に頼ることなく果たして人は生きられるのだろうか。
「自立支援」。ホームレス支援の現場においてそれが課題だった。30年前、私達は「自立支援」を「居宅設定」と「就労支援」として捉えていた。1990年最初の「自立支援」の対象者は60代後半の男性で長年野宿生活をしていた人。アパートを紹介し保証人も用意した。生活保護の申請を手伝った。「これで安心」と私達は考え、次の方へと支援を移行させた。
それから半年後。大家さんから連絡があった。「アパートから異臭がする」。慌てて駆け付けた。呼べど叩けど出てこない。鍵を借りて中に入る。部屋はゴミ屋敷になっていた。おっかなびっくり奥の部屋をのぞくと、なんとそのゴミの真ん中でおじさんは寝ておられた。一晩がかりでゴミを処分したのを覚えている。
何でこんなことになったのか。その後、担当したボランティアで話し合った。一つはご本人の課題。つまり、この方には軽度知的障害など何らかのケアすべき課題があったのではないか。あるいは生活した経験などが無かったのではないか。今の抱樸ならば、障害の有無など、適切なアセスメント(評価)が出来るが、30年前、それが不十分だったと思う。しかし、それ以上に私達が問題だと考えたのは、入居後誰も訪ねて行かなかったということだ。上記の通り「居宅設置」と「就労もしくは生活保護受給」を「自立支援」と考えた私達は、入居をもって「支援終了」と考えていた。しかし、彼にとっての自立は孤立を意味した。私達は、誰かが訪ねてくるとなると、なんとか部屋を掃除して準備する。我が家の場合もそれが良き掃除のチャンスとなる。私達が生きる上でこのような「他者性」の有無が大事なのだ。この「他者性」が欠落すると「自分」しか存在せず、結果「自分が良ければどうでもよい」という状態になる。だから、人は一人では「自立」できないのだと思う。
となると、果たして自立の対義語、すなわち自立の反対は依存なのだろうか。「誰も来なくても掃除ぐらいしろ」と言われそうだが、私のような人間は、時々「誰か」が来てくれないと掃除をする気にならない。私は掃除をするという動機付けにおいて「他者に依存している」と思う。だから、自立の反対は依存ではなく孤立なのだと思う。自立することは、もうひとりでは生きていかない、いや、生きていけないということ自覚することを意味する。そもそも宗教者は神仏の助け無くしては生きていけないと自覚した者を言う。悟りを開くというのは、自分が単独では成立しない存在であることを知るということを意味する。だから、イエス様にはいてもらわないと困るわけだ。
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