教会学校幼小科では、春に長崎、広島、沖縄と順々に訪ねている。長崎は四度目の訪問となる。ガイド役をしてくださったのは昨年の平和式典において被爆者代表としてスピーチされた城臺美彌子(じょうだいみやこ)さん。原稿になかった「集団的自衛権の行使容認は日本国憲法を踏みにじった暴挙」と安倍首相にぶつけた方である。
爆心地公園の一角に「当時の地層」が展示されている場所がある。瓦や食器、焼けたガラスなど、当時の「日常」の断片が残る。造成の際、成人女性の骨と乳歯を伴った頭蓋骨が見つかったという。傍らには炭状のそば殻も。寝ていた母子が一瞬にして亡くなったとのこと。胸が痛む。
城臺さんは子どもたちに「平和とは、何ですか」と尋ねられた。子どもたちは「戦争がないこと」など答えていた。城臺さんは「さっきパン屋さんの前を通った時おいしい匂いがしました。私はあれが平和の匂いだと思います。日常生活がそのまま続けられることが平和です」と仰った。戦争になると日常生活が出来なくなる。自由に食べることも、学ぶことも、語ることも戦争は奪っていく。当然おいしいパンも。それが戦争だ。かねてから貧困と格差が戦争につながると考えてきたが、考えてみるとすでに戦争は始まっているのだ。すでに貧困が日常を奪っているからだ。
では日常とは何か。それは「普遍性」の事柄だ。すなわち「私の日常」は、同時に「彼の日常」でもあるということ。寝て、起きて、食べたいものを食べて自由に学ぶ。すべての人は、この何気ない日常に生きている。それが大事なのだ。
永井博士は、原爆投下後「如己(にょこ)堂」という二畳ほどの小さな家に身を寄せた。「如己」とは「己の如く隣人を愛せよ(如己愛人)」というマルコ福音書一二章のイエスのことば。イエスは、自己と隣人は別ものではなく繋がっていると説いた。ここにも普遍性がある。「愛されたいと思っている自分と同じく隣人もそう思っている。だから互いに愛せよ」。あるいは「自分が嫌だと思うことは隣人もそう思っている。だからするなよ」と。自分を愛することと隣人を愛するということは一つの事。しかし、この普遍性を断ち切ることで戦争は可能になる。
隣人の上に核兵器を落とせるのは、自分と隣人が分断された結果である。先日ロシアのプーチン大統領は、クリミヤ「編入」の際、核兵器使用を検討したと発言。自分と他人という普遍性を失った大統領が核のボタンに手をかける。
すべての人間はつながっている。「日常」という普遍性を持っているのだ。あの地層に七〇年前の「日常」を見た。だから胸が痛んだ。あの母子は、僕と同じ普遍性、すなわち日常を生きていたからだ。日常は時を超えて私と隣人を?ぐ。
今、日常が壊されようとしている。ヘイトスピーチは、日常の普遍性を見失った庶民の姿。戦争が近づいている。日常を今一度確認することで打ち返そうと思う。寅さんは言う。「お互い貧乏人同士じゃねえかあ。もう少しいたわり合ったらどうだ」。そうだ、僕らは大統領ではない。お互いの日常を生きる庶民に過ぎない。きっと、わかり合えると信じる。
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