初恋・初悪

 わが初恋は忘れもしない小学校一年生の時。同じクラスの玲子ちゃんが好きだった。ちっちゃな女の子でピアノが上手。とはいえ、ピアノを弾いているところを見たわけではなく教室にあるオルガンをよく弾いていたのを、部屋の隅っこで聞くともなく聞かぬともなく、という様子でしっかり聞いていた。当時の教室にはオルガンがあった。彼女は「トルコ行進曲」が得意だった。それがそういう名の曲であることを知ったのはずいぶん後のことではあるのだが。

 おかっぱ頭の彼女とは帰る方向が同じだった。家まで遠いので担任の横関先生が同方向の子どもたちは一緒に帰るように言われていた。その帰り道。田んぼのあぜ道を歩いているとき何を考えたのか、僕は彼女のランドセルめがけて飛び蹴りを一発かますのであった。玲子ちゃんは前のめりに田んぼに転落。火が付いたように泣き声が上がる。僕はと言えば、その横を平然と歩いて通り過ぎ、そのまま帰ってしまったのだ。

 笑話ではない。今から思うとこれはもう犯罪である。れっきとした暴行傷害事件だ。しかし、それにしても、なぜ僕はそんなことをしてしまったのだろう。今も不可解。僕は間違いなく玲子ちゃんが大好きだったのに・・・。

小学1、2年を同じクラスで過ごしたが、別にその後どうなることもなく、というかそんなひどい事をする「おくだくん」を好きになってくれるはずもなく、3年生でクラス替え、4年の時、僕はさよならも言えぬまま転校した。中学校で一緒になったはずだが、何せマンモス校(そんな時代だった。一学年一四クラスもあった!)。それきり話すこともなくなった。

 僕の苦い初恋の思いでは、玲子ちゃんにしては迷惑かつ痛い思い出だったろう。もう、覚えていないかも知れないが・・・。人間は複雑怪奇な存在である。この乱暴を人間一般の問題にすり替え「しようがない」と言い訳してはいけないと思うが、そんなことをしでかすのが人間であることは事実だ。なぜ僕はあの日「君が好き」と言えなかったのだろう。なぜ、蹴っちゃったのかなあ。

 パウロは自分を嘆く。「私は自分のしていることが、わからない。私は自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからだ。私はなんとみじめな人間か」(ローマ書7章)。大好きな子に飛蹴りをかますような僕には痛すぎることば。恋さえも悪にまみれている。

先週姜 尚中先生はこう仰った。「愛を考えるにはまず悪を考えるべきである。悪の反対は善ではなく愛である」。信じられないような事件が起こっている。犯人を「極悪人」とすることは簡単だ。その方が分かりやすい。しかし聖書は、すべの人間が悪であり、罪人であると言う。悪は人間の問題なのだ。パウロもその現実に肩を落とす。「彼だけ」を極悪人とすることはできない。川崎の18歳の少年もまた私と同じ人間だ。イスラム国もそうだ。悪に対抗するものは何か。善をもって悪に対抗すると、どちらかが殲滅するまで戦うことになる。だから悪に対抗するものは愛しかない。それは、赦しであり、イエス・キリストである。

 玲子ちゃんその後どうしているかなあ。

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