(この間の事件について書きました。次の本に緊急寄稿ということで載ります)
「ひきこもり問題を何とかしなければ」とか、「就労支援の拡充を」と言う声が事件後、私の周りでも聞こえています。国も今後何等かの対策に乗り出すでしょう。しかし、あまり早計に進めない方が良いと思います。特に「ひきこもり対策」の成果というか、目標をどこに据えるかには慎重にあるべきだと思います。ザクっというと、「ひきこもりの解消」も「就職」もそれは目的・ゴールではないということです。ましてや、このような事件が起こると「社会防衛」とか「治安」とか言い出す人も現れかねません。
大切なのは、「しんどいのは本人である」という事実の認識です。そして、そのしんどい状態(ひきこもり)で何年も、いや、何十年も生きた、とにもかくにも生きてきた‼この事実を「すごい‼」と認めることだと思います。同様に、親も苦しいながらも、「よくやった‼」と認めることです。
私は、野宿10年という親父さんたちと出会ってきました。彼らに野宿からの自立を勧めながらも、常にあったのは「あの過酷な状態でよくぞあなたは生き延びられましたね」という「尊敬の念」でした。流行りの言葉で言うと親父さんたちを「リスペクト」してきたわけです。
「対策」を考える上で何よりも大切なのは、その「目的」だと思います。目的は、「その人がその人として生きること」であり、「その人が幸せに生きること」に他ならないと私は考えます。それが「目的」である限り「家の外に出ること」や「就職」は手段に過ぎません。そして、「手段は目的に常に従属的であるべき」なのです。「手段の目的化」は絶対に避けなければなりません。
先日「生きづらさを抱えた人の就労支援」に関する会議に出席していた時のことです。ひきこもり状態にある方々に対するアウトリーチを含む就労支援の活動の報告がなされていました。素晴らしい実践であり、明確な成果をあげておられました。圧巻の報告に皆が息をのんだのでした。
しかし、それは厳密にいえば「就労支援ではない」と私は思いました。なぜならば、就労は「手段」に過ぎず、実践者たちが目指していたのは、「就職」ではなく、「その人のしあわせ」なんだと感じたからです。今後、国が「対策」に乗り出す時に、間違っても成果指標を「就職率」や「増収」のみに特化することは避けてほしいと思います。
会議の最後に発言を求められました。そこで「数値化できない『しあわせ』のようなものが大事だと思います」と発言させていただきました。終了後、ひきこもりの親の会の方が近寄ってこられ「あの発言に救われました」と握手をされました。ここはしんどいのですが、国を始め、皆が「責任的に事をはじめるために」、もう少し「わからないこと」と向き合わねばならないと思うのです。
以上
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