社会

6/23巻頭言「『責任感のある父』で済ませないために―私たちは神の家族」その③

3、責任的に事柄を始めるために『わからない』ことと向き合う
つの事件後、「ひきこもり問題」は一層大きく取り上げられるようになりました。先にも述べましたが、事件の原因を一つ二つの事柄に確定するようなことは控えたいと思います。「ひきこもり」が「原因(犯人)」であるかのように言ってしまうのは一種の「思考停止」と言える状態です。それは、出会い無き言説であり、一種の「期待」であると言えます。
なぜ、「期待」なのでしょうか。このようなショッキングな事件が起こると私達は「不安」になります。「不安」は「理解できない」ということから起こります。そのままでは「不安」でもたないから、何か明確な「原因」を探したくなります。それがわかれば「安心」だし、「対策」も打てると考えているからです。この間の「ひきこもり」論議は、当事者ではなく周囲(社会)が「安心したい」という「期待」から生じているように私には見えます。
「安心したい」という気持ちはわかります。実は、私自身、子どもたちが不登校でひきこもっていた時期がありました。随分悩みましたし、親なりに苦しみました。「何が原因か」「原因を取り除けば元気に学校の行くのではないか」と軽薄に考え、焦り、子どもたちを苦しめたと思います。しかし、現実はそう単純ではありません。いや、むしろ、そういう「思考」が子どもたちを追い詰めたと言えます。今は、反省するばかりです。
何をやってもうまくいかない日々が続く中で、ある人の言葉が私を支えました。少し難しいですが引用します。
「特定の苦難が実際に経験されるということは、何かを曖昧にしてごまかすよりもずっと大切だと僕には思われる。ただ、その苦難のある種の間違った解釈には、僕は断固として反対だ。そのわけは、それらが慰めようとしていながら全く見当違いの慰めになっているからだ。だから僕は苦難を解釈しないままにしておく。そして、それこそ責任的に事を始めるゆえんだと信じる」。
これは、ボンヘッファーというドイツ人牧師の言葉です。彼はヒトラー暗殺計画に加わり、逮捕され、ドイツ敗戦の一か月前に処刑されました。これは、死の一年前に獄中で書かれた文章です(1944年2月1日)。繰り返しますが、人は「わからない」と「不安」なり「わかること」で「安心」を得るのです。今回の事件においても、この「わかりたい」という「正直な気持ち」が働いて、あれこれと「原因(犯人)捜し」をしているように思います。しかし、それ自体が「責任的に事と向かい合うことを妨げる」ことになるかもしれないのです。
つづく    

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