生きる

5/12巻頭言「時に『ボーっと』生きてますが、何か」

「生きる意味のないいのちは殺せ」と、19人の障がい者が殺された相模原事件から3年になろうとしている。「意味があるか、ないか」。私たちは日々問われている。忙しい私たちは「意味」や「目的」のため行動している。自分自身を振り返っても、目的もなく「ボーっと」していることなどほとんどない。時間に追われ目的地を目指す。自分がいつまでに何をしなければいけないかを認識し行動している。それが現代人なのだろう。
しかし、出張から戻った夜、「ボーっと」テレビを見ていることがある。連れ合いから「早く寝た方がいいよ」と心配される。何かしているわけではない。ただ「ボーっと」している。気づけば午前3時を過ぎている。彼女の言う通り、こんな調子じゃあ身体を壊す。妻に逆らいたいわけではない。やらなければならないことがある訳ではない。見たい番組もない。ただ「ボーっと」しているのだ。僕は、確かに「意味のない時間」を過ごしている。
「意味があるか」との問いへのささやかな抵抗なのかも知れない。ただこれは、「意味がなくてもいいではないか」「無駄でもいいではないか」と主張するためにやっているのではない。「これこそが本来の人間の姿」などと高尚なこと言うためでもない。そういう「意味」は一切ない。しかし、昨今少々忙しすぎる自分にとっては「何か別の意味のある時間」なのかも知れない。すぐさま「その意味はわからない」が、たぶんそうなのだろう。
「意味」には二つあると思う。一つは「目的としての意味」。現代人は、「目的としての意味」を追いかけている。いや、それに追われてさえいる。「何のために生きるのか」「やる意味はあるのか」「あなたは意味のある人間か」と。目的を持つことは悪いことではない。しかし、自分や自分の行動が、「社会的評価」、特に「経済効率性やそれに基づく生産性の有無」のような既成価値でのみ測られ「意味がある」とか「ない」とか言い始めると厄介なことになる。結果、「意味のないいのちは殺せ」という人が現れる。 
だから、もう一つの「意味」が重要になる。「結果としての意味」だ。今日、この時点でそれに意味あるかどうかはわからないが、振り返ってみた時、「ああ、あの日の意味はこれだったんだ」とか、「あのことには、こんな意味があったんだ」と思えることがある。それは「結果としてのわかる意味」だと言える。いや、別にその日が来なくてもいい。「私にはわからないだけで、きっと何か意味あるんだろう」ぐらいに考えてよい。「意味」は、神様だけが知っている。いつか天国で「神様、あれってどういうことだったの」と聞いてみよう。それを信じることが大事だ。やる前から「それって意味があるの」とあまりせっつかないでほしい。なぜならば「神様は意味のない人や、意味のない事柄をお創りになられるほどお暇ではない」からだ。僕はそれを信じている。みんなが「いつかわかるだろう、その意味」を楽しみに生きることが出来ればと思う。
だからチコちゃん、僕が「ボーっと」生きてても、どうか叱らないでくださいね。

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