大切なのは「私だけ」というようなケチなことは言わないということです。「東八幡教会に来ている人にだけ」とか「クリスチャンになった人にだけ」などと対象を限定しないということです。これは「すべての人」と分かち合うべき福音です。「世界中のすべてのみなさん、どうです、いい言葉でしょう。『神様は、どうでもいいいのちをお創りになられるほどお暇ではありません』。信じてみませんか」と伝えたいと思います。全世界に50億人以上の人がいようが、ジャングルの中で暮らしていようが、ビルで暮らしていようが関係ありません。「すべての人に」「お暇ではない」という福音が届けられる。本気でそれを信じましょう。
なぜ、信じなければならないのか。苦難の中を生きていきた人とこの教会が出会っているからです。先日、ある青年が私にこう語られました。「私、どうでもいいいのちだから。奥田さんは、すべての人が救われていると言いますよね。だったら私も救ってほしい。私にとっての救いは今すぐ死ぬことです。私にとって現実の社会は『地獄』です。神様が救ってくれるのならば、今すぐに私のいのちを奪ってほしい。私にとってそれが救いです」。重いことばです。私は、この子が体験した苦労など何も経験していません。だから、私の実存から発する言葉をもって反論できない。彼女のこの言葉に、教会はどう反論できるのでしょう。それには信仰の言葉、信仰告白の言葉をもって語るしかないと思います。真剣に信じないと、何も言えない。適当なことを言っては対応できない。「神様は、どうでもいいいのちをお創りになられるほどお暇ではない。この事実は『すべての人』に適応される。例外はない。君がどう言おうが、君もその対象なんだ。すべての人に与えれた大きな喜び。すべての人に与えられた恵み。すべての人とは、君のことなんだ」と信仰告白するように語るしかないのです。
「すべての人に与えられる」と天使が言いました。「すべての人」とは誰の事なのか。それを、一年間真剣に考え、祈り、信じ、生きたいと思うのです。キリストの教会は、そうでなければならないと思うのです。実際に出会えるのは、一部の人でしかない。しかし、私達は、信仰を大きくもって「すべての人のことを祈る。神様の恵みは、すべての人に与えられている」と宣言したいと思います。「神様がいるなら、いますぐいのちを取ってほしい」と真顔で言う若者に、私達も真顔で「そんなことは断じてない、俺たちは真剣に信じているんだ。すべての人に与えられる大きな喜びがある。誰一人神の恵みから漏れない」と言い返さねばならないのです。
「そんなことはきれいごとだ」と揶揄する声が聞こえてきます。私達が、真剣に信じなければ、あの天使の言葉は「きれいごと」で終わるでしょう。しかし、もし真剣に信じるのなら、それは「きれいごと」ではなく、「事実」となります。嘘っぽく言うから「きれいごと」と言われる。本気で言ったら「事実」になる。私は、そういう教会になりたいと思っています。
この記事へのコメントはありません。