クリスマス

12/23巻頭言「クリスマスどころじゃねぇ―光は闇の中に輝く」

 クリスマスになった。街はイルミネーションに飾られ「クリスマス一色」。日頃は、聖書もイエスも関係のない人々が、この時ばかりは「にわかクリスチャン」になれる。誰かに何かをプレゼントしたくなったり、誰かと一緒にいたくなったりする。それを揶揄する教会側は「本当のクリスマスをお祝いしましょう。クリスマスは教会へ」と呼びかける。そんなケチなことを言わない方が良い。そもそも「教会に属するクリスチャン」が日頃から「誰かにプレゼントし、誰かを受け入れているか」自問した方が良い。
 しかし、世の中には「クリスマスどころじゃない」という人がいる。一昨夜もホームレスの炊き出しパトロールに参加していた。23時過ぎ、いつもなら人通りが途切れる時間だが、多くの人でにぎわっていた。忘年会帰りの人々が楽しそうに駅へと向かう。その傍らで「俺には関係ねえ」と言わんばかりに路上で過ごす人がいる。ジャージ姿の彼は「ジャンパーが手に入らなかった」と震えていた。彼にとってクリスマスは「やかましい鐘」、あるいは「騒がしい鐃鉢」(第一コリント13章)に過ぎないのかもしれない。路上だけではない。クリスマスが人を少しだけやさしい気持ちさせ、誰かと一緒にいたいと思わせる故に、だからこそ「しんどい」思いが一層募る人もいる。愛する人を亡くした人、夢破れた人、暮らしに不安を抱える人、学校に行けないことに苦しむ子ども、行けないわが子を心配する親、引きこもりの子の将来に不安を覚える親、「少しは自分らしく生きたい」と思うがままならない若者、病気に苦しむ人、生きる意味を見出せない人、国の将来に不安を覚える人、「このまま目が覚めませんように」と祈る人。これらの人々にとっては「クリスマスどころじゃねえ」が正直な思いだろう。
 しかし、だからこそ言いたい。クリスマスは「クリスマスどころじゃねえ人にやってきたのだ」と。イエスの両親は、結婚する前に聖霊によって身重になった。冗談じゃない。一体誰の子どもなの。なんで私達が救い主の両親に選ばれなければならないの。慎ましく「普通の暮らし」を考えていたカップルにはあまりにも過酷な現実だった。皇帝の命令で身重の妻と長旅を強いられた。辿り着いた故郷には居場所はなく馬小屋で出産する羽目に。ユダヤの王からはいのちを狙われた。巻き添えを食ったベツレヘム周辺の子どもたちが虐殺され、その親たちはまさに「クリスマスどころじゃねえ」と叫んだ。結果イエス一家は出産後すぐにエジプトに逃亡することにもなった。救い主の誕生を天使から告げられたのは羊飼いで「そんなどころじゃねえ。おら仕事中だ。さぼると親方に叱れちまう。おまんまの食い上げだ」と言った。しかし、そんな人々の現実に救い主は生まれた。それがクリスマスである。
 ヨハネ福音書はその事実を端的に語っている。「光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった」(ヨハネ福音書1章)。「それどころじゃねえ」というあなた。あなたにクリスマスはやってきたのだ。だから言う、クリスマスおめでとう。

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