(10月20日に金子千嘉世先生が召された。葬儀には行けなかった。それで勝手に追悼文を書いた。)
それとこんなことがありましたね。千嘉世さんからSOSの電話。覚えてますか。千嘉世さんが関わっていた方の家族が海に身を投げて亡くなった。捜索したが見つからない。今日になって警察から「遺体が上がったから取りに来るように」との知らせを受けた。家族は行けないという。どうしたらいいだろうか、そんな相談でした。その日の千嘉世さんは、珍しく弱気でしたね。僕も牧師になってから、そういう場面に何度か立ち合っています。「逃げ出したい」と思ったこともありましたよ、でも、行くしかない。「こうしろ、ああしろ」と僕から言うことはできませんでした。ただ「千嘉世さん。引き受けなさい。今僕が言えることはこれだけです」と言って、聖書の言葉を伝えました。それが「恵まれた女よ、おめでとう」(ルカ福音書一章)。すると千嘉世先生は、「そうっちゃね。先生ありがとう。警察に行ってくるわ」と電話を切られました。イエスの母マリアも結婚直前に聖霊によってイエスを身ごもります。それって無いよね。好きな人と一緒になれる、結婚できると思ったマリアさんが誰の子どもかもわからない子どもを妊娠させられるわけだから。その時の天使のセリフがイカしているわけです。「恵まれた女よ、おめでとう」。一体何が恵まれている?何がめでたい?でも、神さまは、苦難の道を歩み始めたマリアを祝福された女と宣言されたわけです。
後日、その時の事をお聞きしましたが、ずいぶん大変な思いをされたようでした。でも、あの日も言ったように、神様は、時々そういう大変な目に遭わせられるわけです。しかし、そういう「大変」は、誰でも良いとはいかない。「選ばれし人」が、そういう目に遭わされる。千嘉世先生は「恵まれ、おめでたい女」に選ばれたのです。僕も、千嘉世さんに負けず、ずいぶん「恵まれた男」でした。正直、選んでほしくないわけだけど、神様は、いろいろな場面で僕らを選んでくださったわけです。おかげで、妻の伴子も家族も泣きたいぐらい「恵まれる」わけです。先の女性たちとの関わりも含め、色々な人を引き受けて、お金もないのに支えて来た千嘉世さん夫妻は、本当に恵まれた夫婦でした。お疲れ様でした。
千嘉世さんは、会う度に僕をマッサージしてくれました。これは大変助かりました。天城山荘でも、連盟会議室でも、いつもいつも「先生、疲れとっちゃろ」と。はい、疲れてますよ。今日もね。なんせお互い「恵まれた人」ですから、人一倍疲れるわけです。疲れている千嘉世さんが、疲れている僕を揉んでくれる。これが飛び上がるほど痛かった。「イテテ」と言うと「ああ、なるほど」とあなたは冷静で「どこどこが悪いっちゃね」と解説しながら、一向に止める気配はなく、もっと飛び上がらせてくれました。周りにいた牧師さんたちが「おくやんだけズルい」と言うと、あなたは次々にマッサージしていました。
つづく
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