社会

7/22巻頭言「悪法は、悪である」

 「悪法も法である」。ソクラテスが処刑に際して言ったとのことだが、本当はよくわからない。「法治国家だから、悪法であったとしても法である限り国民は守らなければならない」という意味で引用される。そうだろうか。悪法は悪ではないか。
 カジノ法案が成立した。正式には「統合型リゾート実施(IR)法」と言う。どんなにかっこよくいってもカジノであり、ギャンブルだ。衆議院は、この法律に15にも及ぶ付帯決議を付けた。そうまでしないと通らない法律なのだ。「カジノ施設の設置及び運営に伴う有害な影響を排除する観点」を持つようにする(付帯一)。「有害な影響」が出る恐れがあるものをわざわざ作るのだ。「(カジノの)数については、(中略)国際的競争力の観点及びギャンブル等依存症予防等の観点から、厳格に少数に限る」(付帯四)。「依存症予防等の観点から、カジノには厳格な入場規制を導入する」(付帯八)。「ギャンブル等依存症患者への対策を抜本的に強化すること。(中略)ギャンブル等依存症患者の相談体制や臨床医療体制を強化すること」(付帯十)。最後に、「十分に国民的な議論を尽くすこと」(付帯十五)。百歩譲って「悪法も法」と開き直るなら、この付帯決議をキチンと果たすべきだ。そもそも法本文や付帯決議を読んだ国民は何人いるか。「国民的な議論」は存在したか。読売新聞は、かつて社説にこのように書いた。「そもそもカジノは、賭博客の負け分が収益の柱となる。ギャンブルにはまった人や外国人観光客らの“散財”に期待し、他人の不幸や不運を踏み台にするような成長戦略は極めて不健全である」。全く正しい。依存症を増やす恐れのある法律を作っておいて、依存症対策を抜本的に強化する。誰が考えても矛盾している。しかし、この国は、経済成長、つまり金が儲かれば何でもする国なのだ。あれだけのことがあっても原発を輸出する。この法案の土台には、この国や私達の社会の在り方が見える。
 本気で依存症予防と言うなら、この法律は廃案にすべきだ。ギャンブルもアルコールも度が過ぎると本人の意思とは別に行動してしまう。それが依存症だ。「依存症」は、病気であり、治療の対象だ。他の病気同様、「本人がだらしない」ということで済まされてはいけない。だが、この病気が厄介なのは、病院だけでは治らないということ。つまり「医療的ケア」と「社会的ケア」が必要だ。「社会的ケア」とは、一緒に戦ってくれる家族や仲間が担う。最近TOKIOというグループのメンバーが高校生へのセクハラで芸能界を引退した。そもそも彼はアルコール治療のため入院していたという。退院の日、友人とウイスキーを飲んだ上、セクハラ事象が起る。他のメンバーは、涙ながらに悔やんでいたが、退院の日、社会的ケアを担う友人がいなかった。
 イエスは言う。「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。」すべての法は、この基準において検証されるとよい。となると、やはり、あの法律には、こういうしかあるまい。悪法は、悪である、と。

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