先週、東京で明石市の泉房穂市長と対談をした。パワフルな方で「子どもと障がい者に特化した街づくり」で人口などV字回復させた。講演の中で「一般に標準世帯と言うとサラリーマンの夫と専業主婦、子どもが二人などと言われるが、そんな世帯はない。明石市では、ひとり親、不登校、引きこもり、障がいが標準世帯だと考えている」と明言。ホントにすごい!コーディネーターは、全日本ろうあ連盟の久松三二事務局長。手話と同時通訳での進行は初の試みという。久松さんは、あたたかいお人柄だが筋の通った方。「中学の時、障がいのある自分をいじめていた同級生が、その後自殺したと聞いた。最初は、意味が解らなかった。障がいがないのになぜ自殺するのか。後に彼らも生き辛さの中に置かれていたのだと気づいた」との言葉が染みた。
夜の部には七人が登壇。どなたも各界のトップランナーばかり。豊中市の勝部さん(プロフェッショナルに登場の方)。著書「下流老人」の藤田さん。地域医療をされている遠矢さん。さらに政治学者の宮本先生。厚生労働省から局長らが登壇。やはり現場の報告が面白かった。藤田さんは、現場の話の後、生活保護基準の改悪など公的扶助が切り詰められていると指摘。彼らしい。これを受けて会場におられた高名な学者先生が発言された。藤田さんの発言に「モグラ叩きの話しではなく、そういう話しが聞きたかった」と。発言に会場は盛り上がり、厚労省の局長たちは苦笑した。 藤田さんの指摘はその通り。この国は自己責任論を盾に公的責任を曖昧にしつつある。一方で、この先生がおっしゃる「モグラ叩き」が気になった。現場での取り組みに対して「モグラ叩き」とはどういう意味か。誰が誰を叩いていると言いたいのか。たぶん「現場の話しはいいが、政府を批判しないのはダメ」と仰っりたかったのだろう。そうであっても「モグラ叩き」はダメ。
現状は、大先生の仰る通りの問題だらけ。だが、現場を「モグラ叩き」と言い切るこの先生は、どこに立ってモノを言っておられるのか。現場の取り組みを「モグラ叩き」呼ばわりする「学識」とは何か。どれだけ博学かは知らないが(とは言え、私はこの方の本はよく読んでおり、確かに勉強になる)それでいいのか。
養老孟司が「教養とは人の気持ちがわかること」と言ったことを思い出す。「教養はものを識ることとは関係がない。やっぱり人の心がわかる心というしかないのである。それがいわば日本風の教養の定義なのであろう。自分だけの考え、自分だけの理屈、自分だけの感情、そんなものがあったところで、他人に理解され、共感されなければ、まったく意味を持たない。」(養老「まともな人」より)
イエスは言う。「最も小さい者のひとりにしたのは私にしたのだ」と。政府批判は常に必要だ。特に今日のような状況では。だが「最も小さい人」との向き合いが勝負だとイエスは言う。一足飛びに天下国家が語ることはできないのだ。どんなに偉いから知らんが「小さい人」の気持ちを考えない教養や批判は意味がないぞ、と、少々「モグラ叩き」を試みたが、どうだろうか。
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