その2で書いたように「星の下」は「『すべての人のための教会』を目指す東八幡キリスト教会の責任を果たすプロジェクトである。『つながりに苦しむ方々』に対して『どんな形でもとにもかくにもつながりましょう!』と呼びかる。その具体的な手段が「星の下」である。困窮のみならず、社会的孤立が深刻化する現代社会において、これは東八幡キリスト教会が果たす役割である。
それは福音の本質が「インマヌエル―神われらと共にいます」であるからに他ならない。キリストの救いは「共にいる」という「つながりそのもの」なのだ。つながることは生きることであり、生かすことなのだ。
このような「つながり」は、すべての人に必要だ。それは「まだ見ぬ隣人」のみならず、すでに東八幡キリスト教会につながる人々も含めて、そうなのだ。毎週日曜日午前に礼拝堂に集まる。共に祈り、賛美し、そしてみ言葉に与かり、礼拝をささげる。しかし、それが出来ない時もある。病気、障害、高齢、いや、どうしても礼拝堂に入れない時さえもあり得る。人は弱い。身体のみならず、心はもっと弱い。今礼拝に集う者たちもそれが困難になる日が来る。そんな日「星の下」で共に礼拝に参加できるなら素敵なことだと思う。
パソコンは苦手。インターネットは解らない。そんな声を聴く。それは仕方ない。ならば、手紙を書こう。訪問しよう。電話でも良いではないか。「星の下」が問いかけたのは、インターネットの活用術ではない。「ともかくつながる」という覚悟なのだ。だから対象は「まだ見ぬ隣人」に限らない。教会員も含まれる。他行会員(休眠会員)も含めて私達は考えねばならない。「つながる」ことは、これからの時代において最大のテーマなのだ。東八幡キリスト教会における宣教論的課題は「つながる」こと。
ただ、「つながる」は「一致」ではない。「同じになる」でもない。イエスは「敵を愛せ」と言われた。愛せないから敵なのだが・・・。イエス様なら敵でも愛せたのだろう。でも僕は無理。しかし、「愛する」を「つながること」だと理解することが出来るなら、希望はある。喧嘩相手がいる。そいつと喧嘩をし続けている。でも、それは「つながっている」ことだと言いたい。それでいいのかも知れない。「愛する」は、「つながる」から始まる。それがないと愛することなど絶対にできない。だから、ともかく「つながっておこう」と言いたい。「星の下」は、今日この時代において教会のみならず、すべての人、社会の課題の一つの具現だと言える。この意義をキチンと理解したいと思う。
次回は、それを支える体制について考えたい。ただ、責任や体制は、その意義を実感しない限り成立しないので、これまでの文章をしっかり咀嚼してから進みたい。
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